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車窓から

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電車の走行音が橋を抜けて、ここから離散していく。橋の上では線路がまだ振動していて、それが橋脚を伝って真っ暗な川面まで不規則に揺らしている。川面の揺れは空に映ってずっと向こうまで広がって、今消えた。夜がすすんでいく。
私は独り、川岸に座って澄んだ星空を見ている。
私がここにきて、京王線の特急が四本、橋を通過した。川音を下に、走行音が響くと夜空はかっかっと輝いて、星が強く主張する。その一つを、ずっと見上げているのだ。
「星空を見上げて独り、しんみりとしている。」川沿いの風景で私はきっとこんな風に映っている。川上から吹いてくる秋風も、そこの雑草の枯れ始めそうな感触も、そういう情景を手助けしている。しかし、このときの私の感情というものは全く逆のものであり、私は遥かな妄想を夜空に流しながら興奮していたのだ。



妄想の背景には夕方の山手線が走っている。品川から新宿方面の電車は日曜といえども席は埋まっていて、吊革も半分以上埋まっていた。ホームは秋の空気が入り込んでいて少し冷えている。冷やされた線路が車輪との間で奏でる金属音も秋の雰囲気の中で整えられて、鼓膜を嫌に刺激しない。そんな貴重な季節がやってきている。
乗客は別々の目的地を目指しているが、彼らは皆揃って疲弊していた。電車に気力を吸い取られているようだった。走り出した電車は車窓に夕景の色を灯して、彼らを鮮やかに照らしている。彼らの影が車内に落ちて、蛍光灯の下に闇を創っている。浅く、けれども確実な闇であった。
大崎に到着してすぐ、目の前の席が空いて、私はそこに座る。(余談だが、私にはもうすぐ席を離れる人間が判別できるのだ)立っている時よりも足元の闇がよく見える。あの茶色の革靴の近くには生き物を殺したときの匂いがするような、Nのマークの靴の近くには遠雷を聞いたときの些細な不安、に似たものが隠れているような、総じて暗い空気が漂っている。
車窓と夕景の間にビル群が入り込んで、彼らの影をなくす。一瞬のことだった。それが何度も何度も繰り返され、彼らはその度にさらに疲弊していくようであった。
勢いよく飛んでいくのは外の景色。視点を奥の夕景に向ければ近くの景色はただ流れて、近くに視点を向ければ奥がぼやけてしまう。その時に、ほんの少し酒の酔いのようなものを感じるのが楽しい。一体、何が私を酔わせているのか。私はそれを繰り返し、妙な感覚を抱きながら少し楽しくなっていた。

繰り返しの途中、私の視点は窓ガラスまで近くなって一つの異変に気づいた。動く夕景を背景に、窓ガラスに小さなヒビが生じたのだ。その一瞬を、私は見逃さなかった。
不思議なことだ。座った向かい側の席の、そこの窓にある小さな、小さなヒビを、私は確実に見つけてしまっている。しかも時々、目の前に立っている人が邪魔で窓ガラスが見えない。それらを掻い潜った一瞬に、私はヒビを見た。
あそこにヒビがあるぞ。誰も気づいちゃいない。もしかしたら私の見間違いかもしれない。そう思って何度も何度も視点を合わせる。それでもヒビは確かにそこにある。
私はだんだん、楽しくなる。東京をぐるりと回り続ける山手線。日曜の夕方という日常に、非日常の種が潜んでいる。静かに、車窓に風景を映しながら、静かに、電車の振動を受け耐えながら、静かに、自身を大きくさせているのだ。あれはまだ、大きな事故には繋がらない。今、整備士に修理してもらったり、窓ガラスを取り替えたりすれば、山手線は平常運転で回り続けるだろう。
しかし、そんな普通な世界、一体何が楽しいというのか!
私はあることを想像して興奮していた。
あのヒビをそのままにして、新宿で降りる。そのとき、できるだけ普通を装って、誰もあのヒビに気づかないようにする。するとどうだ、誰にも気づかれなかったヒビがある時、――強い風がやってきたり、コウモリが生き急いでぶつかってきたり――そのときにバキッと大きくなって割れていく。乗客は驚くだろう。パニックになる者をいるかもしれない。もしくは静かに驚いてシュールな空気が流れるかもしれない。
ガラスが割れたときのことを夢想する。例えば今。動く夕景が小さなヒビから車内にすぅっと入り込んできていて、それが原因でヒビが大きくなってしまう。夕景の匂いが車内の陰鬱な影を塗り替えてゆき、夕景が絶頂に至ったとき、(私は秋の夕景が持つ、最高の美の瞬間を知っている)ヒビは耐えきれなくなって勢いよく割れていく。騒めく人々の中で独り、まっさらな夕景を、割れた窓越しに観測する――。
完璧な妄想だった。私はその妄想を最前列で傍観できる。もしくは大雨の日なんてどうだろうか。きっと誰もが風雨のせいで割れたと勘違いする。いいや、そいつは元々割れ始めていたのだと、私だけが知っている。何とも心の奥底が痒いではないか。
電車は夕景を走り、新宿の空には夕暮れが見えている。代々木を過ぎた辺りから車内がざわめきだして、彼らの影は細かく振動していた。一日の終わりに安堵しているようだった。
新宿のホームには人が溢れていた。彼らはこれから山手線に乗るらしい。一体どこまで行くのだろう。私は席から立って、揉まれながらホームに降りる。完全にヒビを置いてけぼりにした。いくつかの妄想は車内に残って、またぐるりと東京を回る。
あれが割れるのは何周目だろうか。いや、割れる前に誰かに見つかって修理されるだろうか。いいや、そんなことはない。あの無表情の集団には小さなヒビに気づくことはできないだろう。外に大きく広がる美しい夕景にすら目がいかないのだから。
流れるホーム上で立ち止まる。邪魔だろう、そうだろう。それでも私はこの電車を見送らなくてはならないのだ。少しだけ我慢しておくれ、東京人。



そのあと、私は京王線に乗り込んで最寄りまで向かう。途中でどうにも心が浮きだってしまって、途中下車したのだ。知らない駅だった。そうして川岸で夜空を見上げている。

そこで歩くサラリーマンよ、あなたには私はどう映っているだろう! 
話がしたいものだなぁ!
作品名:車窓から 作家名:晴(ハル)