浜っ子人生ー遠い記憶
昭和7年(1,932年)8月30日、私は横浜市のど真ん中、吉田町で生まれた。
昭和4年の大恐慌の尾を引いた不景気の風が吹き荒れていた頃、昭和6年には満州事変が始まっていた。その二年後に生まれた私達の世代は、終戦迄の少年期を戦争の中で過ごした「生まれながらの戦中派」であった。
私の祖父の話では、先祖は小田原の北条氏に仕えていた武士で、豊臣秀吉の小田原攻めに敗れた後現代の横浜市の北部に逃れ、時代が降るにつれて野に出て来たようだ。菩提寺は市内の三ツ沢にあり、空襲で焼けてしまう迄は私の先祖が着ていた鎧甲がうやうやしく飾られていた。私は祖父の話を聞きながら、余り大きくもない鎧甲を見て「本当にこれを着ていたのかな」と思ったものだ。
そんな昔はともかく先祖は江戸時代には町人になっており、「松本屋」と言う屋号で米屋兼両替屋として繁盛していたようだ。母に聞いたところでは、広重の東海道五十三次の内で神奈川宿と言う絵図に描かれている「田中屋、丁字屋」と言う二軒の宿屋の反対側に店があったと言うことだ。
ともかく「遠い昔から続いている家」に私は生まれたと言う事であって、平成の現代では「武士の血を引く」とか「古い家系」など、それこそ一文の価値もないが、私が幼かった頃にはこんな事が一つの家族の誇りでもあり、又纏まりの絆ともなっていた。そして私はこの絆に縛られながら生きてゆく運命の下に置かれていた。
さて松本屋は土地や貸家などもたくさん持っていた相当豊かな商家だったらしく、母の少女時代には文字通り「乳母日傘(おんばひがさ)」の生活だったようだ。しかしこの旧家も祖父の時代に入ってからの放漫経営と浪費がたたり没落してしまった。
母は五人兄弟姉妹の次女として生まれたが、長女と長男が早世した後、残った姉妹三人の長姉として家を継ぎ婿を取った。父は世田谷生まれの大変な働き者、横浜港内のタグボートの会社に勤めていたが、真面目さが認められ私が生まれた頃には、「シマ」と呼ばれた会社の部のような組織の長になっていたそうだ。
父は大変子煩悩な人で一人っ子の私を溺愛したようである。
「ようである」と言うのは甚だあいまいな言い方だが、物心がつき始めてから父と一緒に生きた時間が余りにも短く、父との触れ合いの具体的な場面が記憶の片隅にのこっているだけだ。
例えば、浴衣を着た私を肩車にしてお祭りの山車を見せてくれた父、横浜港の大桟橋の土屋倉の横で風雨を避けていた母や伯母や私を置いて、円タク(タクシー)を探しに走って行った父の後ろ姿、お土産のケーキを電車の中に置き忘れ、桜木町駅迄とりに行って戻ってきた時の父の顔とかは憶えている。
戦前の横浜は日本の玄関口として異国情緒に溢れていた。馬車道、日本の大通り等のある通称「関内」や大桟橋のほうではマドロスさんを見るのはごく普通の風景、異人さんとすれ違うのも別に珍しくはなかった。
横浜、特に町の中心部は東京とは一味違った国際色豊かな一画であった。
子煩悩だった父は私を連れてメリケン波止場(大桟橋)あたりへ屡々出掛けた。ある時、父の仕事関係の白人夫婦とメリケン波止場で会った時、その奥さんが私を抱き上げてくれたのを微かながら憶えている。恐らく三歳くらいの頃だったろう。
港が見える丘の公園、外人居留地や外人墓地等々、横浜には異国と触れるチャンスが多くあった。そして関内には外国会社の支店等も多く、横文字の看板を見る事も決して珍しくは無かった。
「好事魔多し」とはよく言ったものである。私が五歳の時に支那事変がはじまり戦線は拡大する一方であった。これに連れて港は益々忙しくなって行った。身長1.8メートルに近く頑健そのものと自他ともに認められていた父は、この激務の連続に遂に倒れた。脊髄カリエスと診断されベッドの人となった。
母は必死になって看病したのだが、それまでの無理が祟ったのか父の病状は一向に快方に向かわず、昭和14年1月25日、楽しみにしていた私の小学校入学の姿を見ることもなく他界した。文字通り今でいう「過労死」であった。
父の人脈の広さを示すように、家の前の今井川を挟んで会葬の車がずらりと並んだ光景が、今でも私の脳裏に焼き付いている。そして火葬場で骨を拾っている時、伯母が
「ほら、この背骨の黄色くなっているのを見て御覧」
とつぶやくように言うのが聞こえた。
つと走らせた私の目に写ったその色は、実際には真っ黄色ではなかった筈なのに、私の記憶には鮮やかな黄色として残っている。
父を奪い去った病魔の爪痕に、叩きつけるべき怒りを表す術すらないほど幼かった私は、じっとその黄色く染まった骨を見つめていた。優しかった父が死んだ。その冷酷な現実にぶちのめされていた。
父は逝った。短い現世の縁ではあったが、父はスポンジのように柔らかかった私の頭の奥底に刻み込んだ「男としての優しさ」と
「父に対する尊敬の念」それは父からの遺産であった。
その後の留まる所なく拡大する戦火の日々の中、勇ましく出生して行く人がいない我が家。母一人、子一人の私達が味わった世間への引け目や疎外感は底知れず寂しいものだった。だが私が道を誤る事もなくこんな時代を生き、成人出来たのも、私に残してくれた「父の遺産」と「逞しく生きる母」の姿が、影に陽に僕の在り方の基盤になっていたからだと今もそれを信じている。
(完)
作品名:浜っ子人生ー遠い記憶 作家名:栗田 清