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浜っ子人生ー今も心に残る先生達

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 特に漱石ものには一際力を込めて授業をされた。お陰でそれ以来ずっと今まで私は漱石が大好きでいる。先生の言葉で今も心に残っているのは、「中を満たせ」だった。上っ面ではなく自己を静かに充実させよという教訓、とかく不和雷同しやすい凡人の私は、ついそちらに走りたくなる度に、この教訓を思いだしながら人生を歩く道しるべとしてきた。先生は鳴山草平と言うペンネームで小説も書いておられた。
 
 この先生方のほかに科学の吉川先生、あだ名はスターリン、堀の深い顔立ちで髭は正にスターリンそのものだったが、その目には物静かな光が何時も漂っていた。この先生は元素記号表を歌にして私達に教えてくれた。スムースなリズムのその歌は、厄介な元素記号をすぐに覚えてしまえるほど上手く出来ていた。
 
 旧制1校入試に備える神中の校風が浸み込んだ先生方の知恵の一つであった。又作文の原田大作先生はニホンザルみたいな顔をしていた。あだ名はダイサク、「捉われずに書け」が先生のトレード・マークで、自分の気持ちをこねくり回さず、素直な心で書くことを奨励された。先生には息子が二人いて、僕らのクラスにはその下の方がいたが、彼のあだ名はショウサクだった。
 
 歴史の加瀬先生は未だ若い先生だったが、とにかく暗記、暗記へと走る当時の歴史の授業だった中で、先生は日本史、西洋史を通じて「流れ」を大切にした。何年に何処で何があったと言う歴史ではなく、その歴史が日本や世界をどのような流れに乗せて来ているかを大切にされたので、先生の歴史は楽しかった。神中の先生の中では珍しくあだ名が付いていなかった。何かあると直ぐに顔が赤くなる先生、新制になって中学が共学になった時、
 「先生、中学では何処を見て教えるんですか」
と意地の悪い質問をわざとして、先生が赤くなるのをはやし立てたのは我々悪童だった。
 
 そして最期に、神中の先生方の中で飛びぬけて凄かったのは英語の水田先生、神中、旧制一高、東大という当時の秀才コースを歩いた典型的な大先輩、体は弱かったが先生の英語教育は凄かった。単語を覚えること、文法を徹底的にマスターすること、この二つを柱に毎回の授業は手厳しいものだった。
 
 当時、私も手製の単語カードを手放さず、何処に居てもより多くの単語を暗記しようと努力したものだ。あるとき、帰校する電車の中で進行方向左のドアに寄りかかって暗記を続けていた。ところがこちら側のドアが開くのは北鎌倉だけで次は横浜まで開かない。
 
 暗記に夢中になっていた私はマントの裾がドアに挟まったのも知らず、下車駅の保土ヶ谷でおりようとして初めてそれに気が付いた。マントを引っ張れば先輩から受け継いだ大事なマントの裾が切れてしまう。そうなっては先輩に申し訳ないので、定期券では出来ない無賃乗車をし、こちらのドアが開く横浜迄乗り越して解放され、やっと保土ヶ谷へ戻ったと言う、とんでもないエピソードもこの猛烈永田先生に遠因がある。
 
 ある時カナダでこの話を白人にしたら、到底信じられないと首を振っていたのを見ても、永田先生の教育の凄まじさが判る。ただ、先生から
 「語彙を豊富にしろ、文法知識を徹底しろ」
と教えられた事が、後年カナダで英語をマスターして行く段階で素晴らしく役立った。今私の人生でたった一つの特技が英語と言えるのも、遡れば永田先生の熱心な指導が無かったら私の英語は絶対に存在しなかったと確信している。
 
 ところで先生は放課後、誰もいない音楽室でよく一人でピアノを弾いておられた。未だ物も乏しく荒んだ世相の時代だったけれど、ショパンが好きだった先生のピアノの音が、悪戯がきだった私の胸に憩いを注ぎ込んでくれた。後年クラシックへの目が開かれたのも皆先生のお陰だったと言える。
 
 保土ヶ谷小学校での六年間、そして神中から新制への希望ヶ丘高校へと名前こそ変わったが、六年の神中生活とは、私の人生の学校生活で最高のものだったと今も懐かしく、又感謝に満ちて思いだされる。十二年の、この上ない貴重な年月であった。もう先生方はみな世界を異にしておられるが、私の感謝は尽きない。    
               (完)