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大地は雨をうけとめる 第10章 種

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 屋敷への道を輿に揺られながら、鬱々とルシャデールは今朝のアニスのことを思い出す。
 朝食をとった後で、アニスの様子を見に行った。
 彼は食事の最中と言っていいのか、あたりに料理が散らばっていた。食べさせていたインディリムは、頭からスープをかぶったらしく、髪は濡れ、野菜の切れ端を顔や服につけて、へたりこんでいた。
 どうしたのかとたずねたら、『食べさせ方が早かったのでしょう。皿を手で払われました』そう答えた。
 当のアニスはえへらえへら笑いながら、口の周りを汚しながら、床に落ちたものを拾って食べていた。無精ひげが汚らしい。ひげはいつも、デナンが剃ってやっていたが、ゆうべから王宮の宿直《とのい》でトリスタンとともに不在だ。剃刀を使うひげそりは、危険がともなうから、従僕たちには無理だった。
 あまりに情けない姿に目をそむけた。
 前はずっと見ていたい顔だったのに。
 人の気持ちは変わるという。でも、あれはアニスじゃない。あれは……誰? それとも何? あんな……あんな……みっともない生き物! 
 その一方で、心のどこかから別の声がする。
(そんなことが言えるのか、おまえに。彼は親にも愛されなかった、惨めなおまえに友情と信頼を与えたんじゃないのか? だからこそ、今のおまえがいるだろうに、それを忘れたのか、この情け知らず! 結局おまえは、親が与えてくれなかったものを彼に求め、役に立たなくなったら、棄ててしまうんだ。本当はおまえだって、『急な病気』で彼を葬ってしまいたいんだろう?)
(違う!)
(従僕たちから文句が出る前に、どうにかしたいんじゃないのか? おあつらえ向きに、施療所には毒になる薬だってある。おまえには、狂ったあいつを受け入れる覚悟なんて、さらさらないんだ!)
「違う!」
 輿が止まった。
「御寮様? いかがなさいました?」
 ソーリスが不審な顔で見ていた。声を出してしまったことに少しうろたえたが、何でもない、と、平静を装う。
 いっそ、この世界、すべて壊れてしまえばいい。誰も彼も、魂からすべて、消滅してしまえばいいんだ。
 輿の上で袖のほつれを引っ張りながら、彼女は破滅の呪いを胸中に吐いていた。


 冬至には祖霊が帰ってくる。還迎夜《アヴァンテ》だ。
 各家庭ではごちそうを用意して、帰って来た祖霊たちを迎える。十二月七日に、玄関にレモンの枝で作った飾りを門の下に吊るし、そこに銀の太陽と月と、紅色に彩色した団子をつける。
 家の一室(または一角)に祭壇をしつらえ、揚げパンや干した果物、固くてしょっぱいチーズ、それに小麦粉に砂糖を混ぜ、練って色づけした花形の菓子テュルペを供えるのだ。アビュー家のような大きな屋敷では、祭壇用の仮小屋を玄関前に建てる。
 テュルペを作るのは、その家の嫡子と決まっていた。アビュー家では当然、ルシャデールの仕事だが、彼女は不器用だ。去年まではアニスが手伝ってくれた。彼は魔法のような手さばきで、練り小麦から花を創りだしていく。
『ハトゥラプルにいたころ、よく作りました。その頃はまだうまく作れませんでしたけど』
 彼はそう言って笑っていた。そういえば、彼もまた、農夫の息子としてではあるが、嫡子だった。
 今年はエクネが手伝ってくれる。
「難しいものですね」
「うん」
 エクネは彼女よりすこしましな程度だ。
「テュルペ作りかい」
 トリスタンが部屋を覗き込んだ。紺色の豪奢な外套を羽織っている。今夜は王宮の宿直だ。これから出仕するらしい。
「去年よりきれいに作れてるじゃないか」彼は一つつまんで手のひらにとる。
「それはエクネが作った」
「あー、そうか……。ちょっと話があるんだが」
 ルシャデールはできたテュルペを玄関前の祭壇小屋に持って行くよう、エクネに言いつけた。
「錫杖の儀なんだが、来年を予定していただろう」
「うん」
「アニサードがこんなことになって、延期はやむを得ないとしても、君の侍従を別に決めねばならない」
 そのことは常に頭の隅にあった。だが、別の誰か、ということになると、いつも考えは止まってしまう。
「それは、わかってくれるだろう?」
「うん……」
「アニサードを見限ったわけじゃないが、現実的な問題として考えないといけない時期に来ている」
「うん」
「もし君の希望があるなら聞いておきたいと思ったんだが」
「特にないよ」というよりも、アニス以外の侍従は考えられなかった。「あなたとデナンで相談して、適当によさそうな人を選んで」
 トリスタンはうなずき、何か言いたげな表情をしたが、それじゃ、行ってくるよ、とだけ言い残して部屋を出て行った。
 一人になったルシャデールは深く息をついて窓の外を眺める。初冬の空は曇りがちだ。
 血のつながりもない祖霊なんて帰ってこなくていい。帰ってきて欲しいのは元のおまえだ。


「夢うつつの時、懐かしい顔を見るんだよ」カプルジャが言った。
 え? ルシャデールは聞き返す。
「親父におふくろ、兄貴、女房、息子なんかがね、まわりでにこにこしながら、わしを見てるんだよ。みんな、とうの昔に逝ってしまった者ばかりだ」
 そうですか、とルシャデールは何気ない風を装って受け応える。死に近づいた者が、もうろうとした意識の中で、故人を見るのはよくあることだ。ユフェリが近くなっているのだ。
「怖くありませんか、死んだ人たちは?」
「いんや、なんたって家族だからね。懐かしいよ。心がぽかぽかしてくるような感じがする」
 しばしの間、沈黙が流れる。老人は死期が近いのを悟っているのだろう。ルシャデールは何と声をかけていいかわからなかった。
「御寮さん、わしは死ぬのかね?」
 落ち着いた口調だった。淡々として、生への執着も感じさせない。
「みんな……誰でも死ぬんです」
 もうちょっとマシなごまかし方はできないものかと思う。だが、彼はもはや死を恐れてはいないような気がした。
「近いのかね?」
「そこまでは……わかりません。……どうして、人は生きて、死んでいくんでしょう?」
 ルシャデールは聞くともなしに、つぶやいた。
「さあ、どうしてだろねえ。わしみたいな、学のない者《もん》にはわからんよ。始源にして一なるお方の思し召しとしか」老人はわずかに微笑む。枯れた、清《すが》しい笑みだった。
 この老人なら、知りたいことに答えてくれるような気がした。だが、言葉にならない。彼女は黙然として、膝に置いた自分の手を見つめていた。
「アイサが言っとった。御寮さんの侍従さんが気が触れてしまったとか」
 ルシャデールは顔を上げた。ええ、と小さくうなずく。
「生きながらにして、死んでいるようなものです。いえ、もっとひどいかもしれない」
 カプルジャは彼女をじっと見ていたが、皺だらけの手を伸ばし、彼女の手に添えた。
「涙を出し惜しみしちゃならんよ。悲しい時にするべき最善のことは泣くことだ。そう、昔のえらい人が言っているじゃないか。わしだって、息子が死んだ時は声を上げて泣いた。悲しいことや苦しいことは出さずにしまっておくと、他の喜びや楽しみまで食い尽くしてしまうよ」
「カプルジャさん……」
「あんたは優しい人だ。幸せになるよう、わしは祈っているよ」