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大地は雨をうけとめる 第9章 アニサードの横顔

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 実際のところ、アニスはひどい状態だった。正常な精神《こころ》の働きを失った人間が、ここまで手のかかるものなのか、と感心してしまうほどに。
 食事、着替え、排泄、顔や体を洗ったりすることも、すべて、一人ではできなかった。彼の世話は従僕が交代で行っていたが、若いルトイクスやインディリムが当たる(というよりも押し付けられると言った方がふさわしいかもしれない)ことが多かった。
 食事は匙《さじ》を持つこともしない。食べさせるにもまず口を開けるよう言わねばならない。食べ物を口に入れてやり、噛むように何度も言って、やっと二、三回、ゆっくりと口を動かす。ちょっと目を離すと、口から食物と唾液がこぼれている。
 下の世話はもっとやっかいだった。便意を訴えることがなく、気が付いたら、服も絨毯も汚れていた。服を脱がせ、尻を拭き、着替えさせる。
 部屋はそのまま本棟二階の客室を使っていた。
 危険に対する判断力も落ちており、階段を転げそうになったり、開いた窓からそのまま外に出ようとしたこともある。転落防止のために、ステンドグラスの入った美しい窓は、下から半分くらいまで、レンガで塞がれてしまった。
 人間らしい反応は何もない。「うー」とか「あー」とか呻き声のようなものは出すが、それも意味があってのことなのか、誰にもわからなかった。


 事件から二週間ほどして、オリンジェがアビュー家を訪れた。
「いかがなさいますか?」
 書庫で薬草の本を読んでいたルシャデールは、応対に出た執事に聞かれて、ソファから立ち上がった。このところ、舞の稽古は休んでいた。アニスの見舞い客の訪問が続いているからだ。相手によって、あるいは彼の状態によって、会わせることもあれば、会わせないこともあった。
 私的に付き合っていたオリンジェならば、会わせないわけにはいかないだろう。
「応接間?」
「はい」
 ルシャデールは本を棚に戻すよう執事に頼むと書庫を出た。アニスへの想いは胸の奥深くに封印してしまったが、彼女に会うのは、やはり心穏やかではいられない。もう一度、しっかり封印して、階段を降りて行った。
 ルシャデールが応接間に入って行くと、ソファに座っていたオリンジェは立ち上がって、頭を下げる。
「オリンジェ・ヤズハネイです」
 近くで見るのは初めてだった。黒い瞳が印象的な、きれいな娘《こ》だ。
 つづれ織りのスカート、白いブラウス。紅いショール。耳には赤い珊瑚のウルファイをつけている。これは、娘が結婚できる年齢になったことを示すためにつける耳飾りだ。許嫁がいる娘は青い石の、結婚した女は紫水晶のついたウルファイをつけている。
 私が男だったら、こんな娘に好きだと言われれば、簡単になびくだろうな。
 そう思ってしまう。
「突然お伺いして申し訳ありません。あの……アニス、いえイスファハンさんが具合を悪くしていると聞いて、お見舞いに来ました」
 女としての敗北感を脇に押しやり、ルシャデールは少し無理して微笑む。お気遣いありがとうございます、と。
「イスファハンさんに会わせてもらえますか?」
 大きな屋敷に気後れしているのか、おずおずとたずねる。
「アニサードの状態について、何か聞いていますか?」
 何も知らないのに、いきなり会わせたら、衝撃は大きいだろう。オリンジェはうなずいた。
「はい、街の噂で、アビュー様の小侍従が気がふれてしまったと……。嘘ですよね?」
「その目でご覧になった方がいいでしょう」
 客間へ案内した。
 オリンジェがアニスに何度も呼びかける。腕をつかんでゆすったりもするが、アニスは死んだ魚のような目を向けただけだった。彼女はすすり泣く。
 ルシャデールはそれを眺めながら、残酷な安堵感を感じていた。
 これで、この娘もアニスをあきらめてくれる。そう思った。
「どうしてこんなことに?」
 そう聞かれて、ルシャデールは幽霊屋敷でのことを差しさわりない程度に話した。
「このようなことになってしまいましたが、アニサードはアニサードです。変わりありません。きっと、あなたが会いに来てくれて、喜んでいます」
 こんなアニスをあなたは好きでいられる?
「いつでもアニサードに会いに来てください。父や私がいなくても、あなたが来たらお通しするように、執事には言っておきます。」
戸惑いを隠せぬようすで、オリンジェはうなずき、帰っていった。
「ソニヤ! エクネでもいい! 水垢離をとるから手を貸して」
 ルシャデールの声に、ソニヤが慌てて出てきた。
「今からですか? どうなさいました」
 普通、水垢離をとるのは祭事の前に限られている。もちろん、それ以外の時に行ってもかまわない。
「心を浄める」
 そう答えた彼女の胸の内は、自己嫌悪でぐちゃぐちゃだ。
 オリンジェ。彼女はアニスがだめなら、きっと別の相手を見つけるだろう。あの器量なら、難しくはない。
 じゃあ、私は? 私にはこんな、狂ったアニスしか残されていない。
 水垢離用の行衣に着替えながら、シリンデの声が頭の奥でよみがえる。
『愛するに値せぬ者か?』
『己の欲を満たす役に立たねば、そなたらは愛することも、受け入れることも考えぬ。違うかえ?』
 夏なのに、頭からかぶる水は冷たかった。


 見舞いと称する人間はその後も続いた。中には狂人を見てみたいという興味本位で来る者もいたが、大方はアニスに対する素朴な情愛を抱いた人だった。カシルク地区の住人や、広場の果物売りのおばあさん、アニスが四年前に少しの間世話になった肉屋の主人。たいがいは、状態を簡単に話し、心遣いに感謝して帰ってもらった。
 エディヴァリばあさまも来た。彼女は舞の稽古に来ないルシャデールを案じたらしい。
『心痛むことであろうが、来客が落ち着いたら、また稽古においでなさい。そなたにはアビュー家の嫡子としての務めもある。小侍従殿のことは、今は空の上なる方々に委ねるしかありませぬ』
 それからカルジュイク公アルセラーム。若いが思慮深げな落ち着きと良家に育った品格を身につけている。会うのは初めてだが、深みのある声はどこかで聞いたように思えてならない。
 彼もまた、ルシャデールに関心を持ったようだった。
「カームニルの御出身と聞いたが」
「はい、カズクシャンの生まれです」
「ルシャデールというのは、フェルガナでは男名だが、カームニルでは娘にもつけるのか?」
「いえ、女性でしたら、普通はルシャンデになります。父の名が……ルシャデールでした。それで母が私をルシャデールと呼ぶようになったのです」
 なぜ、この男に名前の由来を説明しなければならない? 不審に思いながら彼女は応対する。
「実の御両親は健在であられるのか?」
「母は亡くなりました。父は……おそらく健在かと。会ったことはありません。それが何か?」
「いや、別に」
 腑に落ちないものを残して、アルセラームは帰って行った。

 
 アニスは当面、客間で生活することになった。起きている時は何をしでかすかわからず、人の目が届きやすいところに置いた方がいいと判断されたのだ。