妄想恋愛
私の焦っている理由がてんで分からないと言うように彼はすっとぼけた顔をしていた。もしかして父の言葉は嘘だったのかもしれない、そんな風に思わせるような態度だった。
「赤紙が来たのでしょう?」
私は嘘であってほしいと願いながら彼に言った。
せわしなく私の口から出る吐息が冬の寒さで白くなって、二人の沈黙を埋めていた。その沈黙すらじれったい。
彼は少しだけ口を開いた。
「ああ、来たよ。」
あまりにもあっさりと言った彼に私は驚いて声も出ず、彼の顔を茫然と見た。
「何故、何故・・・。」
私は体全体の力が抜ける思いがした。
「何故そんなに平然としてられるのですか?」
私は自然と流れてしまった涙を拭うのも忘れ彼に詰め寄った。彼は少しだけ笑った。
「別に死ぬわけじゃあるまい。」
そう言うと彼は私の肩をポンと叩き、歩き出した。何故だかすごく、彼の手が冷たい気がした。
「死ぬかもしれないです。」
私は彼を追いかけて横を歩きながら、彼が戦場に行くことを止めようと必死になった。
「生きて帰ってこなかったら、私はどうなるのですか?誰が私を治してくれるのですか?」
私の勢いに負けて足を止めた彼の胸元に私は手を置いた。厚着をしているせいか彼の心臓の音は感じられない。
彼は少し困ったように眉を八の字にして私の手を掴む。そして私の手を体の横の定位置に戻した。
彼の返答を切羽詰まりながら待つ私とは対極的に、私が熱くなっていることが馬鹿らしくなるほど彼は冷めていた。その温度差で世の中の大抵の物は壊れてしまうだろう。
「俺はもうだめだ。」
「何故です?何が駄目なんです?」
彼がふっと息を吐く。
希望を無くした儚い蝋燭のような灯火が灯る彼の目が細められ私の黒髪を撫でる。その愛撫からは私を愛しいと思う戯れが感じられる。まるで夢に破れて成熟した大人が、将来の希望を語る子供を愛おしいと思うあの感じだった。
「俺に医者は無理だ。」
初めて聞く彼の弱音に、私はとても驚かされた。
「医者になるのも無理だし、せめて親孝行のためにお国のために働いて来てもいいのかなって思ったんだ。」
医者を諦める、それは彼の人生そのものを変えてしまう決断のはずなのに、彼は案外気楽そうに話していた。
そんな彼の態度が私には不吉に思えて仕方なかった。彼の強い信念がなくなって、彼が彼でなくなってしまうような、そんな気がした。大人になったのだと言えば聞こえが良いが、夢を諦めて妥協することが人間の生き方だとでも言うのか。
「そんなこと言って、何故無理だと決めつけるのですか。まだ頑張れますよ。それに戦争なんて人を殺すだけです。人を助けようとしている人が、何故人を殺しに行こうとするのです。」
私は外であることや戦争を批判することがご法度であることを忘れて必死に彼を説得しようとした。
彼は俯いて、私を見ようとはしなかった。
「文太郎さん。こっちを向いてください。」
私は彼の目を見たくて彼の名前を呼んだ。
彼の顔が私の方へゆっくりと向いた。
彼の目を捕らえた瞬間、私はもう彼が救いようのない所まで堕ちていたのだと、瞳の漆黒さで知らされた。希望を無くしたのではない。彼の根っこはとっくに断ち切られ、代わりに絶望や報われない現実を植え付けられていたのだった。
彼はもう出会った頃の自分を信じる、志高い青年ではなくなっていた。彼は絶望し自分の道を閉ざしていた。いつの間に彼はそうなってしまっていたのだろう。
何故今まで私は気づかなかったのだろうか。
そう言えば最近彼は医学の話をしなくなった。一緒に居てもどこか上の空で心ここにあらずであった気がする。
私は申し訳なさと自分の不甲斐なさで心臓が鷲掴みにされたようだった。けれど私の何十倍も苦しんだのは彼だ。きっと彼は私と出会わなければ、医者になることが出来たはずだ。そしてその事実はきっと彼だって分かっているはずだ。私は今すぐにでも彼の人生上の私という存在を消し去りたかった。
そんな私の心情を少し前の彼なら察知しただろう。けれど今の彼に私の心情は分からない。彼は自分の足元に転がっていた石ころをつま先で弄んだ。
「お結は医者にならない俺を好いてはくれないだろう。君を助けてくれる医者は他にいるさ。」
「そんなことはないです。私は文太郎さんがどうなろうと文太郎さんが好きです。」
彼の言葉を否定したく、私は被せるように言った。
「じゃあなぜ医者にならないことをそんなに嫌がるのだ?」
私が嘘をついていると思い込んでいる彼は疑わしい目を私に向ける。私は彼の疑いを晴らしたくていつもより饒舌になった。
「あなたが自分の志しを諦める人じゃないことを知っているからです。医者になるためにあんなに努力していたのに、諦めるなんて文太郎さんらしくないです。」
私のその言葉に彼はあざ笑うように息を吐いた。
「何がおかしいのですか?」
私は自分の真剣さが伝わっていないことに若干の腹立たしさを覚えながら言った。
「やっぱり君は努力しない俺を好いてはくれない、条件付きの好きなのだよ。」
「そんなこと・・・。」
私はないとははっきり答えられなかった。
確かに私はひたむきに頑張っている彼が好きだった。でもだからと言って今の彼が好きでないわけではない。
「医者を目指さない俺に価値はないってわけだ。世間に負けた俺はお国のために尽くしてこなきゃなあ。」
そう言ってわざとらしく神妙な顔をしながら一度私に敬礼すると彼は自分の家の方に歩き始めた。
「待ってください、文太郎さん!」
雪がちらつき始めた寒空の中、私は彼に向かって叫んだ。
「別に死ぬわけじゃあない。必ず戻るさ。」
彼は一度振り返ってそう言うとまたふらふらと自分の家の方に歩いて行った。
私は初めて聞く彼の薄っぺらい言葉に茫然とした。これほどまでに信用することのできない彼の言葉は聞いたことがなかった。少しだけ降る勢いが増した雪にも気づかずに私はしばらくその場にいた。
―条件付きの好き
私は彼の情熱に惚れ込んだ、けれどそれは彼のほんの一部だということを知っている。私が今の彼を彼らしくないと否定したのは、私のわがままなのだろうか。
彼にとっての幸せは今のまま夢を諦めることなのだろうか。
改めて私は自分の心の汚さに触れた。
正解が分からない、ただ分かるのは彼が好きだと言う事だけだった。
「あねさ、どうしたの?」
茫然とする私にたまたま通りかかった私の弟が声をかけた。
「何でもない。」
私は歩く力を取り戻し自分の家へ引き返した。体が芯まで冷えたのは雪のせいだけではない気がした。
彼が戦争に行って数か月が経った。あの雪の日から気まずさはないとは言えなかったが、多い時には週に一度彼から手紙が届いた。内容は彼らしく素っ気なくて、でもどこかあの雪の日を思い出させる虚無感が伝わって来て、心配という言葉じゃ表せない心に積もる闇は、手紙が届くごとに増していった。けれど段々手紙の頻度は減り、月に一回届く程度になった。週に一度私が送る手紙に応えるというよりは自分の苦しみを私に訴えかけているような感じであった。
彼の目にあった無限の星は何かの強い勢力と言う光によってもう見えなくなってしまっているのだろう。
私はそう目を閉じて想像した。