妄想恋愛
土の上に水が落ち、それを彼は見つめていた。
「不思議だな。」
「何がです?」
私は結局彼から手桶を取り返せず、疲労困憊しながら聞き返した。
「これ。」
彼はさっき私がこぼした水を指さした。
「土に水がかかると泥になって汚く見える。」
「ええ、そうですね。」
何が不思議なのか検討もつかず私はてきとうに相槌を打った。
「でもさっき」
彼は土から目を離し、私を見た。
「お結に水をかけた時は、とても綺麗に見えた。」
彼は不思議だなあ、と言いながらまた土を見ていた。
私は顔に血が集まるのを感じ、まるで手桶の横木が熱いものであるかのように、横木から手を離した。
これまでに感じたことのない感情、これが羞恥というのか?
綺麗、なんて一度だって言われたことも思われたこともなかった。嬉しさと恥ずかしさとほろ苦さが一度に胸のあたりに集結して、何だか心拍数ばかりが早くなって時が進むのがだいぶ遅いような気がした。
それと同時に私は早く彼から離れたくなって、彼から逃れる方法を心の中で必死に探した。
「お結、これはどこに持っていくのだ」
彼が私の方を見ようとしていた。今自分の顔は紅潮していて、きっといつも以上に醜いはずだろう。それに照れている自分の姿なんて見せたくなかった。
見られたくない一心で私は顔を下に向けた。その拍子に手桶に汲んだ水に映った自分と目が合った。今まで見たことがないほど自分の顔は紅潮していて、目はうるんで今にも泣きそうな顔をしているくせに大粒の涙は心に溜まって流れてこようとはしなかった。ついでに酸素も心に溜まっていて、肺がとても苦しかった。けれどそんな自分の顔は不思議なことに、今まで見た自分の顔で一番まともだった。温めると赤くなる白あざが、紅潮した顔に馴染んでいつもより目に着かないからだろうか。
「お結、耳が真っ赤だぞ。」
彼が今どんな顔をしているのか私には分からなかったが、彼の表情を知りたいと思う感情が、自分の顔を見られたくないと思う感情に負けていた。
「結子」
彼が私の名前を呼んだ。
その瞬間、ただそれだけの事で私のあらゆる思考が今までも存在していなかったように綺麗さっぱりどこかへ消えた。
考える能力を失った私は無抵抗のまま、彼の隣に自分が存在しているというこの現実に堕とし入れられたような気がした。私は手桶に映った自分から目を離し、ゆっくりと彼を見上げた。初めて見た時から変わらない彼の瞳は、直視できないほど眩しいはずなのに私の瞳孔は、彼を全て感じようと開きっぱなしだった。
「ほら、必要な出会いだっただろ?」
私の心中は彼にはすべてお見通しなのだろう。彼は手桶を土の上に置いた。そして私の両肩を掴んだ。
「目を見ろ、君は生きている。生きている人間は、人の目を見て離さにゃならん。目を背けるのは死んであの世に行く時だけでいい。」
私は彼の目に吸い込まれるように彼の話を聞いていた。
「君は生きるのだよ、君の病気はきっと俺が治す。君のように美しい人は前を向いて生きるのだ。」
彼の口からすらすら出てくる華麗な言葉は、彼以外の口からでた言葉ならば私は受け付けられなかっただろう。けれど彼の私の両肩を掴む力強さは私の背筋を伸ばさせて、私に一本の芯を与えてくれた。彼の目はきらきらしていて、夜空の星のように無限に広く可能性に満ちている様だった。
―俺が治す。
そんな胡散臭い言葉も、彼の目を見ていると訪れる未来のような感じがした。
何にも期待しない、そう思っていた私が彼を信じたいと思ってしまった。それは私の人生において一生の不覚のような気もするし、幸運の鍵であったような気もする。
「私の家の畑はあっちです。」
私は自分の家の畑の方を指さしながら彼に微笑みを向けながら言った。上がる私の口角につられ彼も目を細めた。私たちの心の中で何かが通じ合った瞬間だった。
それからというもの、私たちはお互いを自分の心の中に住ませた。
医学生である彼は勉強の合間を縫って私に会い、私に難しい哲学や人体学を教えた。はっきり言って私には全く理解できなかったがそれでも、楽しそうに話す彼の横顔や大切そうに医学書を撫でる彼の手つきや時折見せる、考え込んで眉を顰め険しくなった彼の表情も全て好きだった。けれどやはりどんなに私たちがお互いを好きになっても、私の病気のせいでちらつく世間からの差別の眼差しは拭いきれなかった。時には石を投げつけられられたり、彼もハンセン病にかかったのではないかと噂されることもあった。何度も私は彼から離れようとしたけれど、彼は私から離れようとはしなかった。
「何故、文太郎さんは私と一緒に居るのですか?」
私は木が赤く色付き始めた秋にそんなことを聞いたことがあった。私の質問を受け、彼は一瞬だけ考えた。
「お結は何故俺と一緒に居るのだ?」
そして彼は私に同じ質問を返した。
「好いているからです。」
「俺も一緒だ。」
「それが、分からないのです。」
私には自分を好きになる人の心情が全くもって分からなかった。今までの人生で一人もいなかった恋人の存在に、私は一緒に居ながらも困惑していたのかもしれない。
「お前の魅力なんて、俺意外には知らなくていい。」
私はかすかに耳に入った彼のその言葉が聞き間違えではないかと疑い、え?と声を漏らした。けれどほんのり頬を赤くした彼の顔を見て聞き間違えではないことを知ると、ますます恥ずかしくなり私は思わず目線を彼の手元に落とした。
そして少しの沈黙が訪れた。
「好きだと言ったら、好きなのだ。」
彼は少しぶっきらぼうに言った。付き合い始めて知ったのだが、彼は自分の気持ちを伝える時に照れ隠しで少し怒ったような口調になる時があった。それも又、私にとっては愛くるしかった。けれど今はそんな愛くるしさに構ってはいれなかった。
「じゃあ私に口づけできますか?」
私はほぼ勢いでその言葉を口にした。私の言葉に彼は驚いて少しだけ身体をこわばらせた。
私たちは付き合って半年経つが、彼は口づけどころか手を繋ぐことなど私に恋人らしい接触はあまりしてこなかった。経験がないとは言え、私にも恋人同士の交わりの知識はある。
私は彼の目を見た。すると珍しく彼は私から目を逸らした。付き合い始めてからアイコンタクトは、私たちの心の繋がりを表していた。それが彼の方からプツリと切られたような、そんな気がした。
「口づけは、駄目だ。」
彼のその言葉で私はとても泣きたくなった。
―私の病気がうつるのが、やっぱり嫌なんじゃない。
私は涙を必死にこらえた。
「分かりました。」
私は涙がばれないように彼に背を向けて帰ろうとした。
「ちょっと待て。」
彼は私の腕を掴んだ。
「急にどうしたんだよ」
私は泣いていることがばれないように涙を拭い、できるだけ笑顔でいれるように心がけながら彼の方へ振り返った。
「何でもないのです、忘れてください。」
「嘘だろう。何か思っていることがあるのではないか?」
私の言葉に被せるように彼は言った。
けれど一度彼に目を逸らされた私は、彼の目を見たくはなかった。だから今度は私から、彼から目線を逸らした。
「もういいのです。」