星のラポール
1
七夕の夜には星は見えない。
だいたい、旧暦のイベントなのだから、この時期は梅雨の真っ最中だ。そのうえ、祭日でもないと来てる。どうも、この国の暦を決めた人は、人々の願いを叶えようとする気はさらさらなかったらしい。
だから、七夕の夜には星は見えない。
今年もそうだ。雨こそ降らないものの、空いっぱいに雲が広がり、わずかな隙間からでさえ夜空は見えない。雲には都会の光が反射して、あくまでも星空を隠そうとしているかのようだ。
俺はべつに星が見たいわけじゃない。天の川など一度も見たことがない。ましてや、七夕の伝説を信じているほど、もう子供じゃない。なのに、どうしてこんなことを思ったのか。バス停からマンションまでの途上に幼稚園があり、そこに色とりどりの短冊を結わえられた笹飾りがあったからだ。子どもたちの願いごとだから、サンタクロースにプレゼントをねだるような他愛のないものがほとんどだろう。
そういえば、俺が幼稚園児だった頃は、どんな願いごとを書いていたのだろう。どうせ、ろくでもないことを書いていたに違いない。でも、ひとつだけ覚えていることがある。一人の女の子が赤い短冊に書いた願いごと。
――〇〇ちゃんのびょうきがなおりますように――
先生はその短冊を、笹飾りの一番高いところへ結わえつけた。その子の名前なんか忘れてしまっていたし、その願いごとが叶ったのかどうかも、今ではわからない。
俺は毎日この道を通っているし、幼稚園も前からあるのに、七夕飾りに気がついたのは初めてだった。去年もその前の年にも、それはあったはずなのだ。東京に出て来てから、もうかなり経つ。なのに今さらのように気がついて、これまた今さらのように幼稚園時代のことを思い出している。
俺は、あの子のことが好きだったのだろうか。
三十を目前にした独身男の感傷だと、俺は自分で自分を嗤う。前の女とは数か月前に別れたばかりだ。結婚など随分と遠い話のように感じられる。べつに独りでも困ることはないし、むしろその方が自由でいい。何かに束縛されるのはまっぴらだ。こんな言葉さえ、周囲から見ればただの強がりと映ってしまうのだろう。
まあ、どうでもいいことだ。好きに思わせておけばいい。
せめて星でも見えるのならまだしも、曇天の七夕など感傷に浸るほどの価値もない。そう言いつつも、今日は七夕にかこつけて独り飲みするつもりだった。もっとも、ほぼ毎日飲んでいるのだから、理由にすらならないのだが。
意味もなく空を見上げていると、雲の間に何かが光ったような気がした。昼に雲間から薄く太陽が透けることがあるように、夜でも星明かりが奇妙な感じで見えたりするものなのだろうか。
そう考えている間もなく、今度ははっきりと雲の中に光るものを捉えた。
ひょっとしたら、流れ星か?
急いで個人用端末で録画しようと構える。その間にも輝点は雲を抜けて落ちてきている。落ちて……
隕石だと思った。いきなり核ミサイル攻撃されるいわれはない。
だが、これはヤバいぞと思った時は、もう遅かった。
光の点はもはや目の前に迫っていて、いや、本当に迫っていて、それは端末のレンズ越しに見ていたからなのだが、さすがに俺は慌てて飛びすさった。だが、どうもこれがいけなかったらしい。俺は胸に衝撃を受けて飛ばされ、電柱に打ち付けられた。
「くそ。何だってんだ」
肩甲骨の辺りをしたたか打ったが、幸い骨は折れていなさそうだ。
だが、あれは何だったんだろう?
「あいたたた……」
足元から声が聞こえる。「あんたが悪いんだからね! せっかく、よけようとしてあげたのに」
俺は、そいつをまじまじと見つめた。
そいつは、人間だった。いや、人間の形をした何かだった。小さいおっさんとかは都市伝説で聞いたことがあるが、足元で両手を腰に当てて俺を睨んでいるのは、身長十センチほどの小人だった。
俺は夢を見ているんだろうか。こんなことが、あるはずがない。
「ちょっとあんた」
小人が言う。俺を見上げているのは、人間でいえばまだ十五、六歳の少女のようだった。「なに、ぼうっとしてんのよ。謝ってよ」
うん、この生意気さは、明らかに少女特有のものだと、俺は妙な所で納得する。でも、なんで俺が謝らないといけないんだ?
「お前、誰だ」
なんとか、それだけを言う。
「謝るのが先。あんたは私の……」
おいおい、今度は何だってんだ? なんで、いきなり泣き出す?「うわーん、帰れないよおー。みんな、あんたのせいなんだから! あんたが悪いんだから!!」
「おい、待てよ。俺が何をした? ぶつかってきたのはお前の方じゃないか」
「バカバカバカ!」
小さな少女は飛び上がろうとしたが無様に転がって、起き上がると俺の脛のあたりを何度も叩いた。もちろん、痛くもかゆくもない。
俺は、そいつを片手でつまみ上げた。叩かれた感覚もあったし、こうして捕捉してみると、夢でも幻でもないのが判る。「俺は、お前に理由もなく罵倒されるようなことはしていない。とにかく落ち着け。何がどうなっている?」
馬鹿げているとは思いながら、俺はそいつを諭す。だが、小さな少女はしゃくり上げるばかりで何も喋れないようだった。
ん? 待てよ? なんでこいつは言葉が喋れるんだ?
そうだ。何かにぶつかられる前に見たもの。それは確かにこの少女のまぬけ顔だった。レンズ越しだったから、かなりドアップになっていたが。
「放してよ!」
ようやく口が利けるようになった少女が抗議する。意地の悪い怒りが湧き、つまんでいた指を離すと、少女はそのまま落下した。そして、すぐさま受け止めてやる。
「何するのよ!」
「お前が放せって言ったんだろ」
「だからって、ホントにやらなくたって」
「口の利き方に気をつけろよ」
「偉そうなのは、あんたじゃないの」
「叩きつけてやってもいいんだぞ」
「やれるもんなら、やってみなさいよ。どうせ――」
少女が、また泣きそうになる。
「ああ、ああ。わかった、分かったから、もう泣くな」
宥《なだ》めつつ、ふと俺は我に返る。まだ、幼稚園からさほど離れていない。と言うか、通用門前だ。こんな所で一人でぶつくさ言ってたら、絶対に怪しまれる。周囲を見回し、この時間には珍しく誰もいないことを確認する。それから、手のひらの上の少女を地面に下ろしてやろうと屈んだ。
「行けよ。俺は疲れてるんだ」
でも、少女は降りなかった。「行けって」俺は促す。
「私、どこにも行けない」
「はあ?」
「だから、あんたのせいなんだってば」
俺は舌打ちした。この場に長居したくはない。
「じゃあ、俺と来るのか?」
「それも嫌」
「好きにしろ」
そう言うと、少女は猛然と俺の身体をよじ登り、肩に乗って来た。そして、耳元で怒鳴る。「私、もう飛べないの!」
「飛ぶ?」
大きな声になりそうで、急いで声をひそめる。「お前、墜ちるだけじゃなくて飛べるのか?」
「当たり前じゃない。でも、無理」
少女が俺の顔を、自分の方に向けさせようとする。だが、余りに近すぎて良く見えない。
「羽根、折れちゃったもん」