あなたと記念日を
テーブルに背を向けてキッチンに立ちながら、|紗世《さよ》は言った。
バターとオリーブオイルで炒めた刻み玉ねぎとニンニクを、鍋に落とし込む。そこにはすでに温めてあるトマトピューレ。軽くかき混ぜて煮立たないように弱火にする。レンジで熱を通しておいた鶏もも肉を並べ、その上にセージの葉を入れて蓋をした。そして今度はバゲットを袋から出す。
「お腹空いちゃったわね。とりあえず、すぐに食べられるものを作るわ――え? 待ってくれるのは嬉しいけど、うーん……ほら、前菜みたいなもの?」
バゲットを切りながら、紗世は笑う。
「そんな豪勢なものでもないだろって? 失礼ね――。ん? えーっと……」
沙世は照れ笑いする。「うん、ありがとう」
チキンのトマト煮は、紗世の得意料理だ。そして、彼が一番好きだと言ってくれる料理。外で食べるより、ずっといいとまで褒めてくれる。
だから、今日は結婚記念日の特別料理。何でもいいと言いながら、一緒に買い物に行くと、またこれが食べたいって。他にも作れるものがあるのに、色々練習して上達もしたのにと、紗世は少し不満げだ。それでも、どうしても、これがいいのだそうだ。
「いまは、ビールで我慢してね」
そう言って、沙世は冷蔵庫から瓶ビールを出し、テーブルに置く。そして、グラスを二つ。栓を抜いて、二人のグラスに注ぐ。
「意味、分かんないけど、前祝い? 違うっけ。食前酒か」
紗世は笑い、彼のグラスに軽く当てた。
自分のグラスはキッチンの隅に置き、メインディッシュの準備をする。いつもは手抜きで圧力鍋を使うけど、特別な日には手間をかけたいというのが、紗世の思い。無駄な手間でも、それ自体が楽しくなってくる。
お気に入りの歌を口ずさみながら、紗世はハーブを切り刻む。自分の手料理を心待ちにしてくれる人がいるというのは、なんて幸せなんだろうと、沙世は思う。
鍋の蓋を開け、鶏肉にトマトソースを絡めるようにかけてゆく。ソースの焦げ付きがないように、肉が崩れない程度にかき混ぜて、また蓋をする。
しゃもじについたソースを味見がてらバゲットに塗って食べる。そして、ビールを一口。作りながら飲むのは一番良くないと、紗世は分かっている。出来上がるまでに酔ってしまって、食べられなくなるから。だから、普段は絶対にしない。
「何か、他に欲しいものがあったら、言ってね」
沙世はキッチンに向かったまま、背後の彼に声をかける。
特別なのはメインディッシュだけ。あとは缶入りポタージュ・スープと、簡単なオードブル。小ぶりのホールケーキは、毎年この日から気分を改めて、新婚生活に戻れるようにとの願いから。リボンを自分で結んだナイフまで用意してある。これは、二人の儀式のようなものだった。
一年というのは、子どものいない二人にとって、マンネリになるには充分な時間だった。だから、毎年更新すると決めたのだった。
グラス一杯のビールをちびちび飲みながら、沙世は鍋の具合を見る。串を刺してみて、もうそろそろというところで月桂樹の葉を落とす。
火を止め、あと10分。
「もうすぐだからね。もうちょっととだけ、ね」
スープの缶を開け、ミルクパンで温める。これで、二品同時に出来上がる。
ポットのお湯をスープ用の器に注ぐ。
テーブルの上を少し片づけ、そこに彼の好きなバーボンの新しいボトルと、それ用のグラス、氷を準備する。
「まだ、開けたらだめよ。二人で乾杯するんだから」
そう言い置いて、紗世は鍋の具合を確かめる。
上出来だと、紗世は満足げに頷く。
皿に盛りつけ、刻んでおいたハーブを散らす。スープを器に注ぎ、それらをテーブルに運んだ。
「ごめんね。遅くなっちゃって」
紗世はエプロンを取って、ようやく彼の向かいに腰を下ろした。
二つのグラスにロックアイスを落とし、バーボンの封を切る。彼はロックで飲むのが好きだから、最初の一杯は二人ともロックで。その後は、紗世だけ水割り。
「じゃあ、乾杯ね」
ビールの時とは違う、グラスの触れ合う澄んだ音。
紗世は、テーブルの向かいの彼を見る。
「ありがとう。大好きよ」
グラスに口をつける。
「もう、5回目ね。私、変わったのかな?」
紗世の目から、涙が零れる。
「ねえ、何か言ってよ」
だが、彼は黙ったまま微笑んでいるだけ。
「ずるい人」
そう、5年前のあの日。結婚式当日。
紗世を迎えに来る途中……
着付けとかがあるから、式場で待ってると言った紗世に合わせ、一緒に行こうと言ってくれた彼。
その事実を聞かされた時、紗世は嘘だと思った。両親に無理にタクシーを呼んでもらって、式場へ急いだ。
嘘だ、嘘だ! 嘘だ――!!!
彼に会ったのは――
最後に、会ったのは――
「馬鹿」
紗世は呟く。「何年、待たせるのよ」
テーブルの上の写真に向かって、グラスを呷る。
隅に除けてあった箱を開け、ケーキをその前に置く。
飾りのついたナイフの持ち手を、彼の写真にあてがう。
そっと、入刀する。体を少しずらし、彼の手があたかも添えられているかのように。
そして、笑顔のままの彼に向かって言った。
「ねえ、今度こそ、ちゃんと迎えに来てよね」