緑閃光
濡れきった着物を着て、ビニイル傘を差し、一人、車道の真ん中を歩いている。この人物が私だと気づいたとき、酷く体が熱くなった。これが晴天の、人通りの多い時だったならば、どれほどまでの嘲笑と、憐れみと、非難を浴びるだろうか!車がやってきたならばクラクションを鳴らされ、もしかしたら窓越しに危ないぞ! と叫ぶ運転手が見られるかもしれない。そういう可能性がある。そう考えるだけで、何か特別なことを、禁忌を犯しているような、諧謔的な高揚感に包まれだしている。ああ、なんとくすぐったい。
そして、私は魚の後をつける。歩いている道は全く知らない土地になっていた。道路標識には見慣れない地名と、見たことのある地名が混在し、道の両端にぽつぽつと設置された電柱には知らない住所が書かれていた。それでも、変わらない雨粒や、途切れることのないブロック塀の色、そして魚。どこまで行っても風景自体は変わることなく続いている。文字さえなければここはいつもの駅前の道だと思い込むことすら容易だろう。
遂に道が三車線にまで広がった。魚と私は真ん中の車道を泳いでいる。魚の蒼閃光は道の両端にまで及んでいるが、密度の濃い蒼道はもう存在していない。
代わりに雨の線が蒼閃光に突き刺さり、淡くなった蒼に違う雰囲気を差し込んでいた。それは青々とした木々の間から木洩れ日を見るような、そういう密度の薄い蒼色で、しかし、その薄さに全く嫌悪感を抱かない、絶妙なバランスを保った蒼色であった。
魚がぐるっとこちらを向いた。相変わらず顔は見えないが、進行方向から私の方を向いたのだ。今、私と魚は面と向かって対峙している。
こちらを振り向いてから一瞬、魚の揺れが止まり、次の瞬間、魚の蒼閃光が弱くなった。収縮した蒼閃光の代わりに三車線には雨が強く刺さり、弱った蒼閃光に突き刺さっては消えていく。蒼閃光は限りなく実態のない鋭いものに体をえぐられ続けられている。ビニイル傘にはそういう鋭い雨は突き刺さってはこなかった。
ビニイル傘に蒼色ではない色が映った。その色は弱く、しばらく経ってから小さな音を伴った。ああ、雷だ。静かな宿雨に雷鳴が侵略し始めている。これから雨脚が増すということだろうか。もしくは強風が雨に混じりだし、私の着物がさらに濡れるということなのだろうか。
半透明なビニイル傘越しに雷雲を見上げる。宿雨を壊しながら光るあの豪壮な雷の色に、魚は怖気づいてしまったということなのだろうか。実際には大したことのない小雷であったわけだが。
魚は正しかった。ほんの数秒後、霹靂が一直線の道を通り抜け、私は強烈な黄閃光と破壊的な音爆弾をほぼ同時に受けた。視覚と聴覚の微妙なズレに気づくことすら不可能であった。
音と光に僅かな差しか感じられなかったのも無理はなかった。驚くことに私のほんの向こう、魚に雷が落ちていたのだ。魚が感電したかのように悶えている。鱗一枚一枚の外周に雷の黄金色が周回し、魚の蒼閃光を圧倒していた。そういう不思議な光景を、両目、両耳を閃光と爆音に侵されながら確かに認識していた。
蒼と黄金が入り混じっている。混ぜられ始めた瞬間の絵の具のように、二つの閃光はお互いの主張を繰り広げている。その攻防を眺める私は、優勢はどちらの色だと問われているような感覚でいた。同時に、戦場にされてしまっている魚は痛みに悶え、ビチビチとしながら雑魚となっていた。
落雷は随分長く続いている。しかし、この時間感覚はどうも正常ではないように思える。霹靂がすべての感覚を狂わせているように思えるのだ。
そういう中、二つの閃光は次第に和解し始めたのか、一つの閃光になり始めていた。大きく波打った黄金が蒼を分解して融合している。蒼と黄金の融合は緑となり、緑閃光となって魚の鱗に沈着し始めていた。二つの閃光はあくまでも絵具であって、水と油ではなかったのだ。
緑閃光を自らのものとし始めた魚は閃光を見事に操り始めていた。電撃のようにギラギラ活発的だった蒼と黄金の混じりに静寂さを足し始めたのだ。そして落雷が終わった直後、私は今までにない、美に遭遇した。
圧倒的な破壊の前で、小さなおもちゃの破損を悲しむような、そういう人間にだけ見える最期の風景。そういう風景にある、美が魚にも見えたのだ。
飛散していた強大な閃光が一つにまとまる。収縮した閃光はもう一度暴れたいと反発するが、魚はそれを許さない。
緑閃光は雨粒を照らし、木洩れ日の中にいるかのような気にさせた。魚も活力を得たかのように堂々と浮遊している。道一面が緑に染まり、雨がその上から色素を沈着させている。
一層強い木洩れ日が見えた後、魚は元の蒼色に戻った。それもかなり弱い蒼色で、直後、魚は浮遊をやめた。そこに水がなくなってしまったのだ。
空気中に撒き散らしていた蒼閃光や緑閃光をかき集めるように魚は生気を絞っていた。集められた閃光は僅かで、チカチカと点灯はするものの、やはり魚を助けようとはしない。閃光を回収された世界はどこか寂しく雨に濡れていた。
地面に魚。蒼く光っていた鱗はただの鱗になり、今まで見えなかった顔も見える。随分と醜い顔をしていた。
脱輝と醜さの露見は、魚の死を思わせた。
その瞬間、私は拙い鱗の奥底にある淡い欲望を刺激されていることに気が付いた。
あの蒼を……。あの蒼を……。その答えはここにあったのだ。
ただ魚が死ねば良いのではない。私以外の誰か、正確には圧倒的な差を持つ何かが私の前で奪う。そして私はそれを傍観する。
大きな音が後ろから聞こえる。機械的なその音がクラクションだとわかると咄嗟に車道から縁石へと抜けた。ビニイル傘はどこかに投げてしまった。縁石につかまるように突っ伏していると一台の大型トラックが真ん中の車道を通っていった。タイヤが雨水を弾き、魚の上を通過する。押しつぶされると少し目を背けたが、タイヤは何も踏まず、過ぎていった。
走行音が遠くなっていくにつれ、私は赤面した。宿雨の真ん中、それも雷鳴さえ聞こえる日、雨に濡れた着物と車道の真ん中に立つ人。運転手はどういう奴だと思いながらクラクションを鳴らしたのだろうか。
宿雨は止まない。しかし、どこか空虚な宿雨に思えた。
着物がさらに濡れていく。おそらくこの着物はもう使えない。家に帰ったなら濡れたままゴミに出してしまおう。そうしなければ臭い過ぎて部屋がますます陰湿なものになってしまう。そう思いながらビニイル傘を拾い、来た道を引き返そうとしたが、一体どちらから来たのか、分からなくなっていた。トラックの走行音を頼りにしようにも、雨音がそれを隠し、先導する蒼閃光も、魅了する緑閃光も、もういない。
しかしそれ以上に帰り方というものを忘れてしまっているような気になっていた。