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緑閃光

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「緑閃光」
 
 限りなく透明に近い何かが私の目線の先に浮かんでいる。その何かはたしかに透明なため、一体どこにいるのだと私以外の誰かに問われたなら、明確にそこに浮遊している! と教えることは聊か不可能で、かつ諧謔に満ちた発言となってしまうだろう。

しかし何かは確かにそこにいる。

 はっきりとした輪郭こそないものの、その何かの表面にびっしりと並んだ鱗のようなものに太陽光が反射し、蒼系統の色をうっすらと発し、透明な輪郭を空中に見せるのだ。その何かは魚が優雅に泳ぐように、体をくねらせていて、ゆらゆらと鱗の反射が切り替わる。そしてその優雅な揺れに合わせたかのように人が、その何かの傍を通り過ぎる。人は何かを避ける素振りを見せず、ぶつからないことが自然かのように時間が流れていた。
 
 私はその透明な何かをじっと見つめているわけではない。駅前の雑踏を疲れ切った目で眺めるように、その何かの浮遊も雑踏の一部のように視覚していた。その何かを見つけた瞬間こそ視線は何かに釘付けになりもしたが、咄嗟にその視線を外した。どうも見つめすぎると不吉なことがもたらされそうに思えたからだ。それからはずっと、俯瞰的に何かの揺れを観察していた。
 透明な何かが本物の魚に思えてきた。輪郭ははっきりとせず、鰭や鰓も見えず、ただきらりと反射するものを鱗のように思えただけだが、どうも魚だと思うことが、一番納得がいった。あいつは魚だ。
 魚は顔を見せない。顔には鱗のあの反射が存在しないので、顔と尾の先がない魚が浮遊している。顔さえわかればある程度の種類分けもできそうだが、鱗の反射だけで判別できるほど、私は魚に詳しくない。
 そもそも普段目にする魚は切り身にされ、鱗も包丁か何かではがされ、数枚残った鱗には邪魔だと言葉を添えて、どこかに吐き捨てる。水中にいる魚の場合は、鱗に反射する光がやけに人工的なものであったり、反射する光がすべて水の青に染色されていたり、と純粋な鱗の反射というものを見ることは滅多にない。あの、魚の蒼系統の鱗も、水の中では淡白な青色でしかなく、形容しがたいようには思いもしないだろう。
 子連れの男女が魚の傍を通った。魚は一見予想がつかない子供の行動にもうまく対応し、ゆらりゆらりと親子をすり抜けた。しかし、他の大人とのすれ違いに比べると随分派手に泳いだため、私はより濃く魚を認識できていた。

 その子連れの向こうに待ち合わせていた友人の姿を見つけると、魚のおそらく頭の方が私を向き、じっと動かなくなった。魚の向こうでは友人が私を探している。名前を呼んでも良かったが、その声は先に魚に届いてしまう。私は友人の行動に成り行きを任せることにした。
 魚の向こうに視点を合わせ、それでも魚の姿を逃すまいとしていた。視界の端にうっすらと光る蒼系統の鱗の集合体。そちらばかりに気が集中しているが、まぎれもなく視界の中心は友人に向けている。
 そして友人が私の強い視線に気づくと、魚は一度だけゆらりと揺れて、そのまま蒼系統の反射を引き連れてどこかへ行ってしまった。



























 宿雨の真ん中。家には湿気が否応なく侵入し、どこもかしこも腐ったように湿っている。触るたびに感触がどことなく柔らかく、めりはりを持たない表面に嫌気がさしてきた。部屋着にしている安物の着物も黴臭さが目立ってきていた。次の晴れは何日後か。さらに空気までがカラリと乾くまでにはさらに数日かかりそうだった。
 朝が来るたびに雨音がカーテンの向こうから響いてきて、また雨かと思いながらも微かな希望をもってカーテンを少し開ける。そうしてやっぱり雨だと落胆しながら、雨の匂いが窓の隙間から侵入するのを敏感に感じていた。
 今日もカーテンを少し開けた。案の定の土砂降りで、窓に打ち付ける雨が外の景色を邪魔していた。窓の向こうにあるマンションも雨景色に同化され、さらに永続的に続く雨音のせいで、全く平坦な景色が形成されていた。土砂降りであるが、一方で静かな雨でもある。
 カーテンを閉めると部屋干ししていたタオルに触れてみた。湿度が異常に高いため、タオルは湿ったままで、あの臭いを発している。
 フローリングにも細かい水滴が不均一に付着しているように思える。放置したままの原稿用紙も黴臭い臭いを吸収しているのか、どこか黒ずんで見えた。





  
 そういう部屋に突如、蒼色が差し込んだ。
 深海の濃い蒼さにそのまま光を足した蒼の発光は、カーテンの隙間から差し込んでいた。その細長い隙間から部屋全体を染色し、藍色の濃い着物にさえ干渉するほど強烈な光だった。
 
 それは閃光だと言えよう。そしてその蒼閃光は私にあの魚を思い出させた。



 あの魚。友人と時間をつぶしているうちに存在がさあっと消え、脳内の奥底に映像として記憶されるだけにとどまっていたのだ。その記憶が蒼閃光によってまた、叩かれ現れている。蒼系統の鱗をまとった魚だったが、ここまで光輝いていたかと疑問に思った。しかし、だからと言って未知な閃光であるのは当然で、私はそっとカーテンから雨景色を垣間見た。


 
 雨が線となって降り続け、途切れることを知らない。その線は何重にも重なり、面として窓に張り付いていた。その面に投影されたかのように佇む蒼色の物体は、ピントが合っていないようにぼやけていた。
 それはちょうどピントが合っていない光群のようで、それはつまり光群ではないどこかにピントが合っているということであった。目の前の窓ではそれが部屋で一番強く輝いている照明であった。


 私はすぐさま電気を消した。電気のスイッチは窓から少し離れているため、散らかった部屋を帯も締めていないゆるゆるな着物を引き連れていくかのようにしながら横断した。カーテンが開かれた窓からスイッチまでの距離や左右の幕、四角いスクリーンなど、映画館のような形になっていた。そして暗転が映画館よりかなり急だったのがどこかおかしく思えていた。

 
 暗転の瞬間、蒼閃光は輝度を増した。背景によって引き立てられたというべきか。雨景色の窓は暗いと思っていたが、こうしてみると随分明るい。蒼閃光が干渉できていない背景には相変わらず雨が主役を担っていた。


 しばらくして、目が慣れてくるとずれていたピントがあったのか、蒼閃光が小さくまとまっていった。収縮した閃光は細長い形に収まり、次第に蒼閃光が細長い部分にいくつもの模様を作り、その輪郭に蒼閃光が走り出した。
 
 雨音が全く聞こえない。

 窓には蒼の輪郭を持つ魚が浮かんでいた。ゆらゆらと揺れているが、やはり顔は見えなかった。
 私はその輝きに見惚れてしまった。それは致し方のないことで、これほどまでに美を外包した魚が一体どこにいようか。
 さらに背景も線上の雨が魚を引き立たせている。主張しない背景は主役である魚にのみ、視点を運ばせようとさせていた。
 

 しばらく見惚れていると魚が私の視線に気づいたのか、激しく揺れたのち、窓から逃げ出してしまった。




 過ぎ去った嵐のように、魚がいた辺りには妙な静寂が残っていた。そこだけ雨音が消え、線状の雨はやはり一切の主張をしていなかった。
作品名:緑閃光 作家名:晴(ハル)