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『掌に絆つないで』第三章

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Act.01 [飛影] 2019年7月13日更新


「どうして私を殺さないの?」
樹海に足を踏み入れた飛影の背に、氷菜は問いかけた。
胸中を打ち明けることはせず、飛影はその問いにそっけなく応える。
「命令されるのは嫌いでな」
殺せといわれて、殺せなかった。ただそれだけのこと。
氷菜は振り向きもせず答えた飛影の背に、さらに言葉を投げかける。
「私を殺せば、貴方は解放されるんじゃないかしら」
「解放? 何からだ」
「氷河の国の影からよ」
その言葉に、飛影は氷菜を振り返った。
「貴方に呼ばれたとき、貴方の記憶が私に流れ込んだわ」
氷菜は知っていた。
飛影が氷河の国から放り投げられ、盗賊に拾われたこと。邪眼手術を受け、氷河の国へ渡ったこと。そして雪菜を探しに人間界へ行き、幽助たちと出会ったことも、すべて。
手繰られた彼の記憶が氷菜に教えた結論は、彼女をこの手で殺めたいという願いだった。
しかし、彼は氷菜を殺さなかった。
恨む気持ちがあったかどうかさえ、今の飛影にはわからない。彼を産み落とした母にもまた、その本心は読めない。そうしてすれ違った思いが、ここでぶつかり合う。
「邪眼をつけてまで探しだした氷河の国を、なぜ放っておいたの? 雪菜のことを知ったから?」
「……オレが邪眼で探そうとしたのは、氷河の国じゃない」
半分、嘘をついた。
氷河の国を探すことも、邪眼をつけた目的のひとつだった。だが、復讐のためではなかった。彼はただ、失くしたモノの重さをはかりに行こうとしたのだ。そして、はかる術もないまま立ち去った。
オレはこいつに会いたかったのか?
氷河の国の片隅に佇む母の墓石が、瞼の奥から今も離れない。
それとも、恨んでいたのか?
背負い込んだ影を、欲望のままに戦うことで紛らわせていたのかもしれない。
失くした氷泪石を探し続けていた過去の自分。穏やか過ぎる魔界をどこか恨めしげに見ている今の自分に、拭いきることの出来ない影があるとすれば、氷菜の言う通りなのかもしれない。
ところが、氷菜を目前にした今も、自らの呪縛から逃れることは出来なかった。
殺せば解放されるはず。
彼女は言う。それなのに、向けられた母の瞳は飛影を射抜けども、彼がその胸を貫くことは出来なかった。
理由が見つからない。
彼女を蘇らせた後の自らの望みも、そして瞳の奥の彼女の本意さえも不透明なままだ。
「貴様の考えていることがさっぱりわからん……。なぜ、波瀾を選んだ。氷女なら氷女らしく、閉ざされた国の中で静かに暮らせばよかっただろう」
「なぜ氷河の国を滅ぼさなかったの。貴方も…忌み子らしいことは何もしていないわ」
「オレは貴様の願いを叶えてやるために生きるつもりはない」
語気を荒くして飛影が言い放つと、氷菜は即座に「それでいいじゃないの」と強い口調で返した。
訝しげに、飛影が氷菜に視線を移す。紅蓮の瞳がぶつかり合った。
「私も私の思うように生きた。貴方も、貴方の思うように生きればいいのよ」
「……もういいのか、望み通り氷河の国が滅びなくても」
「国を滅ぼそうなんて……願ってないわ」
「滅ぼすためにオレを産んだんじゃないのか」
「女が子を成すとき、望むことはただひとつよ」
「なんだ」
「何もかも凍てつかせた国を……永く見ていることは出来なかったわ。私に出来ることは、新しい命……希望を生み出すことだけ」
飛影は耳を疑った。彼はあまりに予想外の答えに面くらい、その後、目を伏せて肩を揺らして嘲笑った。
「くっくっく…希望だと? 笑わせやがる……その結論が忌み子か?」 
「貴方は……父親によく似ているわ」
「氷女の産んだ男児は、父方の遺伝子を受け継ぐものなんだろう?」
「似てるのは……、妖気だけじゃない」
父親。
飛影は、今の今まで見過ごしてきた存在に気づかされた。
一人の氷女に、遺伝子を継がせた男。自分と同じ炎の妖気をまとう妖怪は、なぜ氷女を選んだのか。
彼は氷河の国を、どうしたかった?
今も、生きているのだろうか?
突如、飛影の胸中に渦巻いた感情。好奇心に似たそれは、彼が氷菜に問いかける言葉さえ奪う。飛影は氷菜に、父親の何から聞けばいいのか、整理がつかないでいた。
そのとき、よく知り得た妖気を感じ取り、彼は振り仰いだ。
氷菜を連れているせいで、思うようには遠くへ行けない。それでも、幽助たちに追跡できるほど魔界の地形は容易ではないはず。
ところが、幽助だと思われる妖気がまっすぐ自分に向かっている。
飛影は額の布を取り去り、邪眼を開いて確認する。やはり近づいてくるのは霊界獣に乗った幽助。ぼたんも同行しているようだ。そして彼女の手には、小さなコンパスのようなものが見える。飛影はその道具が自分の位置を指し示しているのだと気づいた。
「自分で自分の身は守れるな?」
飛影は静かに氷菜に問いかけた。
「……ええ、大丈夫よ」
「ここで待ってろ」
「どこへ?」
「つまらん用事だ」
飛影は氷菜をその場に残して、幽助たちのもとへ向かった。