深淵
日は中天にあったが、曇っている。
繁った木々にさえぎられ、緑陰が涼しい。
足元には草木や灌木が生いしげっているが、かろうじて細い山道をみてとれる。
草を分けて歩き、進んでゆく。
耳に入るのは、晩夏のセミの鳴き声。
そして自分の足が草を踏み分ける音ばかりである。
それが、かえってしじまを感じさせた。
とつぜん、目の前に巨大な縦穴があった。
縁まで、草が生いしげっている。
知らずに踏み込むと、滑り落ちてしまうことだろう。
気をつけて縁から身を乗り出し、のぞき込む。
急傾斜である。少し手がかりはあるが、落ちてしまうと登るのは難しそうだ。
少し下に暗い水面があった。
どうやら、沼のようだった。
水底はまったく見えない。藻が繁茂しているようだ。
濃緑色の水面には、回りの木々の影が映りこんでいた。
水の流れもない。ときおり吹くそよかぜに、水面が揺れるだけである。
この沼では、夜になると女の姿をした妖怪が誘うといわれている。
だれかに、そう聞いたのだった。
そのまま、ぼくはじっと水面を見下ろしている。