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洋舞奇譚~204号室の女~

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その女性は、隣のビルの軒下に立っていた。毎週金曜日、午後五時。

新しい勤務先は、六本木交差点のすぐ近くになった。
泰子が医者になったのはバブルもはじけた頃だった。国家的大不況には無関係に、成長産業であった医療の最前線で、白い巨塔に長年お仕えしてきたけど、そろそろ自分の人生を楽しんでもいいんじゃないかと思ったから、はやりの働き方改革を自分でやってしまおうと、転職をしたのだ。
永遠の売り手市場であるだけに、どこかないですかね、と口走った次の日には10カ所以上の候補が名乗りを上げてきた。とにかく、休日はしっかり休みたい、当直はしない、残業もしない。というか、休日働くなら、当直するなら、残業するなら、その対価を払っていただきたい。当たり前なんだけど、医者は自分のことは返上で無償奉仕があたりまえだと思われていることに対して、自分の限界が来たのだ。
やりがい、とか、専門性を、とか、どうでもよくなった。社会的評価?どうでもよくなった。
もう十分に、国民の皆様にはご奉仕させていただいたとおもった。
白い巨塔の政治にもうんざりした。ごますり、おべんちゃら、鞄持ちが出世していくのには心底うんざりした。患者のためを考える医者よりも、論文を書いている医者が評価される。やぶ医者が失敗して合併症が起きたら、その治療のためにまた医療費が発生して、そうすると、この先生は診療報酬が多く稼げるといわれたりする。矛盾だらけだった。やぶ医者たちが見逃してきた数多くの末期がんの患者、自助努力をまったくしない、大大肥満の糖尿業患者が透析をしている、タバコを吸い続けた肺気腫の患者が酸素ボンベを抱えてタバコを吸っている。そんな現状にうんざりした。
何より、白い巨塔の環境は、泰子の美学にまったく一致しなかった。美しいものが好きで、高校に進学するまで音楽家になるかどうかで迷った泰子はわずかな時間を見つけてはピアノを弾き、演奏会を聴いていた。音楽を、やりたかった。
辞表を渡したとき、教授は困った顔をして、いくつもポジションを提示してきた。結局、泣き落としに負けて、非常勤の外来診療を続けることになってしまい、またしても膨大な書類を用意して、白い巨塔と付き合い続ける羽目になったが、ほかの条件はクリアし、いわゆる華麗な転職を決めた。

新しい職場は、六本木交差点の近くで、大手のクリニックになった。業務内容は了解していたが、実務はどうかと不安はあった。基本的には開業医のレベルであるから、そこは歩み寄るつもりでいたし、少々アナログな手法が多いのでITギャップにびっくりしたのも事実だった。しかし、仕事は確かに17時に終わる。土曜は時々出勤するが、日曜祝日は休み。休暇は好きに取れる。お役所あたりでは当たり前かもしれないが、医療業界では稀な条件なのだ。
好きなだけピアノを弾こうと思って、防音室を作った。いざ弾こうと思うと、防音室の静寂は耳に痛い。贅沢な悩み。

白い巨塔にこの年まで残っていた理由は、父だった。心臓とがんを患っていた父は、泰子が面倒みるしかなく、大学病院の医長なんだというのが何より自慢だったから。その父は、あの大震災の数ヶ月あとに亡くなった。ホスピスで、最後にメロンを誤嚥して。あちこちに転移をしたがんだったが、専門家のおかげで痛むことはなかった。都内への通院が難しくなったころ、最後は自宅に近い病院で、と思って手配した神奈川の病院とホスピスだった。本人は最後も大学病院にいたかったのかとも思う。しかし、それでは母が会いに来られない。いろいろ悩んだ末だった。
狭心症と心房細動で長年にわたって循環器内科と循環器外科の患者だった父は、前任の理事長と心臓外科部長にお世話になっていた。冠動脈ステントとバイパス、都合、二回の手術をしていて、心房細動のアブレーション治療をした後に血尿が出たのだ。バイト先から戻る途中で携帯にかかってきた電話を今でも鮮明に覚えている。泌尿器科の後輩から。PSAが1000を超えている、と。
良く晴れた日だったのに、父を失うことがはっきりとわかった日であった。あの時、泰子は決めたのだ。父を見送るまで大学にいると。医療の進歩はなかなかのもので、それから数年の間、いわゆる末期がんでありながら、比較的穏やかに過ごす父がいた。男性の気持ちはよくわからないが、そんな健康状態でも父は小さな会社の顧問という仕事をしていた。定年まで役員を勤めた大企業時代の部下が作った会社で、楽しそうにやっていた。
音楽が好きなのは両親ともであった。父は海外勤務が多かったせいか、各地のオーケストラに詳しく、オペラも好きだった。母は歌をやっていて、若いころは歌手になりたかった。ピアノも習っていたのだが、戦争のあとはまったくできなくなったとぼやいていた。泰子は3歳からピアノを習った。家にある大量のレコードを聴き、小学生になると父に連れられて、名だたる巨匠の演奏会にも行った。今一つ理解ができなかったけれど。コンクールも出た。まあまあの成績。小学生の頃、将来の夢はコンサートピアニストだった。
世の中には神童がいる。夏のワークショップで出会ったロシアの男の子。金髪の6歳が弾いたモーツァルトから、きらきらの太陽が輝いたとき、泰子は音楽で生きてゆくのはやめようと思ったのだ。
ピアノの先生は大反対で、両親も大反対で、とにかく中学生まではピアノをやりつづけ、コンクールも出続け、それから音楽高校に進学するかどうかを考えることになった。名門女子校は英語で行う授業が多く、中学生になると第二外国語としてフランス語を始めるという環境だった。泰子は海外経験のおかげで英語には不自由しなかったし、フランス語の授業も楽しかった。英語劇やミュージカルをやっていると、やっぱりピアノで生きていこうかと思うこともあった。国内に神童はいなかったが、天才はたくさんいて、なかなかコンクールで成績は出ない。おりしも、時は高度成長期。羽振りの良かった父は、より稼げる職を勧めた。成績も抜群だった泰子は進路に医学部を選んだ。学園としても、音大よりは医学部のほうが進学価値が高かったらしい。
さすがにピアノは高校2年で止めたが、大した受験勉強をした記憶がないにもかかわらず、医学部には一発で合格した。英語が何もしなくても満点だったおかげだろう。学生生活も大した問題はなく、進級は簡単だった。6年間の大学生活は、テニス部と室内楽サークル、軽音楽部とジャズ研という充実した期間になった。あげくに家庭教師と塾講師のバイト三昧で忙しかった。
医者になったら、そうはいかない。
激務は、わかっていた。内科医になりたかったから。
それにしても、激務だった。月に28日の当直、こなした。症例は夜、やってくる。救急で勉強してなんぼ、の世界だから、とにかく患者を診たくて、ひたすら、こなした。
救命センター、集中治療室、内視鏡センターで3年を過ごした。カルト教団による毒ガス事件や、大きな地震、日本では珍しい銃による外傷も、社会問題になった大きなものから小さなものまで。様々な医療事故の被害者を必死に救命した。過ごした時間は無駄ではない。泰子は、腕のいい医者になった。