残り香
二階のぼくの部屋は、いつものように雑然としている。
ぼくはその中心にあるベッドの上に横になっていた。
ベッドを囲む本棚には本があふれ、机の横には楽器が立てかけてある。
床には書籍の入った段ボールが積まれ、その上には、古いパンフレットやカタログなどがさらにおりかさなって、雑然としている。
階下で声がした。玄関口のほうである。
お気を付けて、おかまいもできませんで、と母が見送りの言葉をかけている。
ええ、では、と返事する声には、聞き覚えがあった。
ヨシダさんが帰ろうとしていた。
落ち着いた雰囲気の美しい四十代の女性だった。
音楽の才があり、よくとおる声で、フォーク・ギターの弾き語りを演奏した。何度かカフェ・ライブを訪れたことがある。
ぼくは焦った。
どうしてその人がいるのか分からなかった。
とにかく、帰ってしまう前に挨拶しなければいけない。
「待って。寝てたんだ。夢見が悪かったんだ」
あわてて大声で叫んだ。
そして部屋を出て、急いで階段を降り、玄関口をみた。
だがそこにはもう誰もいなかった。
立ち去り際だったので、ぼくの声は届かなかったのだろう。
ただ、ふわりとよい匂いを感じた。
ヨシダさんの髪の香りのようだった。