赤狭指村民話集成
一山二寺異聞
昔々も大昔、鎌倉時代のころの話じゃ。
そのころ、とある山の頂上に北養院という立派な寺が建立されたんじゃ。どこからか来た偉いお坊さんが、この地方にも格式のある寺社を、と一念発起して建てたその寺は、質素ながらも崇高さを含んだ概観を山頂に示しておったそうじゃ。
とは言うものの、立派な寺ということもあって、基本的に部外者は立ち入り禁止でのう。いつもぴしゃりと閉め切られた寺内では、たくさんの坊主たちが、朝まだ暗いうちからそれこそ日が暮れるまで、掃除や座禅、勤行などの厳しい修行をしていたそうじゃ。
じゃが、一年に一日だけ、その寺で祭が開かれる日があってのう。その日だけは部外者も寺内に入ることを許されておったんじゃ。その祭では参加者に酒食が振舞われる他、坊主たちによる剣舞も行われ、部外者もそれらを楽しみに遠路はるばる山を登って寺へとやって来たんじゃと。
じゃがあるとき、その祭の最中にそれはそれはむごい事件が起きたそうじゃ。
坊主たちが行う剣舞では、刀などの武器を持って舞を舞うが、無論それらは剣舞用のにせ物じゃ。じゃが、その年の祭では本物が紛れ込んでしまったらしくてのう。その本物(言い伝えでは八十数本のうち、本物が二十本ほどあったそうじゃ)の刀で、坊主たちが当時の住職の体を刺し貫いてしまったもんじゃからたまらない。祭の最中、衆人環視の中で住職は血しぶきを上げてハリネズミのようにされてしまったそうじゃ。
後に、調べによってこの件は、修行の厳しさに耐えかねた坊主たちが結託して行ったことが露見し、彼らは数日のうちに全員行方知れずになってしまった。
とりあえずはこれで一件落着となったが、寺としては今後も血なまぐさい事件が起こることを恐れたんじゃのう。舞踊用の刀と本物の刀を取り違えることができないように、山の中腹に武器を格納するための建物を作り、そこを北養院に対応して南養院と名付け、本物の武器はそこにのみ保管するようにしたのじゃ。そして武器に囲まれた南養院の住職は、よほど坊主たちの心を掴んでいる有能な者か、もしくは懲罰を受けた者に限られ、後者が長く住職の座に留まることはまれだったそうじゃ。
また、この山の近くに住む者は、この山寺で住職が刺されて真っ赤になってしまったことから、山の名を「赤刺山」と呼ぶようになったそうじゃ。今は少し変わって「赤狭指山」じゃがの。
これが、赤狭指山と北養院、南養院の成り立ちだと、まことしやかに語られているものじゃが、あまり外聞がよろしくないせいか、関係者は皆この話を否定しているようじゃのう。
(民話採取元:床津郡 山際 五兵衛)