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ザ・定年

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終章


 あれから二年――
 
 
 千鶴は、夫とともに地方に移住していた。
「本当によく来てくれたわね」
「びっくりしたわ、本当に田舎暮らしを始めたのね」
「ええ、3DKのマンションで家庭内別居はきついんですもの」
「え?」
「冗談よ。でも、のびのび暮らしたいっていうのはホント。ここなら散歩や自家菜園で健康的に体を動かせるし、都会の家と違ってゆったりしているからお互い適当な距離も置けるし」
「希望通り、新婚時代を再現できたわけね?」
「ええ、おかげさまでラブラブよ」
「それはそれは。でも、よく思い切ったわね。私たちの歳で、新たに知らない土地で暮らすなんて相当勇気がいると思うわ」
「ええ、正直ずいぶん迷ったわ。でも人生は一度きり、それに案ずるより産むがやすしとも言うじゃない?」
「本当によかったわ、千鶴さん生き生きしているもの」
「今、主人が菜園で収穫しているの。戻ったら手料理を振る舞うそうだから、食べてって」
「え? ご主人が料理を!」
「ええ、主人の作るものはどれも絶品よ。男の人ってその気になると凝りだしてすごいわね」
「へえ」
「変われば変わるものだと思ったんでしょ? たしかにあの時のあなたのアドバイスのおかげ、ホント感謝してるのよ。ありがとう」
「そんな、でもお役に立てたのなら何よりだわ」
「帰りに新鮮な野菜も持って行って」
「ええ、ありがとう。なんだか田舎ができたみたいでうれしいわ」
 
 
     * * * * * *
 
 
 美里は、繁華街の片隅で夫と雑貨店を始めていた。
「いらっしゃいませ、あら、よく来てくれたわね」
「開店おめでとう、繁盛して……」
「ご覧の通り、閑古鳥」
「まだ始めたばかりでしょ、これからよ」
「ありがとう、でも、毎日楽しいからこれでいいの」
「ずっと気になっていたんだけど、あの時の二択、離婚届と航空券、今のこの状態を見れば、ご主人はチケットを取ったってことよね?」
「いいえ、どちらも取らなかったわ」
「え?」
「私は、あの二つを主人の目の前に並べて、これまでの思いのたけをぶつけたの」
「そしたら?」
「しばらく考え込んで、まず離婚届を破いたわ」
「わ、すごい、ドラマみたい」
「それからチケットを取って――」
「まさかそれも破いたの?」
「いいえ、これは君の両親にプレゼントしようって」
「まあ、かっこいい」
「それから主人、この店の話を始めたの。
 実は、これからは二人で何かできることはないかって探してくれていたんですって。彼はどうしても社会とつながっていたいのね。それをこれからは私と一緒にと考えたみたいなの。
 ちょうどそんな時、これまでの仕事の関係で、タイミングよくこの店を引き継ぐことになってね。商品は私の意見を取り入れてくれるし、今度二人で海外にも買い付けに行くことになっているわ」
「まあ、念願の海外旅行もできるなんて、それこそ二人の希望がどちらも叶うことになるのね」
「ええ、でも商売としてやっていけるかわからないから、今のところは贅沢な趣味を楽しませてもらっているって感じよ。
 子どもがいなくてずいぶんと寂しい思いをしてきたし、それから、義母の介護をしたでしょ? 思いの外主人がそれを感謝してくれて、それやこれやの埋め合わせと思ってくれているみたい。
 これからは二人で同じ目的に向かって、一緒に行動できる――私はそれが何よりうれしいんだけどね」
「そう、よかったわね」
「これ、来店記念にどうぞ」
「まあ、ステキな置物いくら?」
「だから記念品よ。でも、これからはどうぞご贔屓に」
「お得意さん、第一号ね」
 
 
     * * * * * *
 
 
「今日で店じまいなんて残念ね」
 開店前に顔を出した私を、孝代は店の前の公園に連れ出した。
「ええ、仕方ないわ。主人が入院することになったんですもの」
「しばらく休業っていうわけにはいかないの?」
「どちらかがしんどくなったら辞めようって、前から決めていたことで、その日がやってきたってことよ」
「でも、ご主人、そんなに悪いわけではないんでしょ?」
「ええ、手術してひと月もすれば元の生活に戻れると思うわ」
「それなら、やっぱり休業ですむんじゃない? ここまでがんばってきたのにもったいないわ」
「二人だけで食べ物屋って大変なのよ。歳をとったら特にね、一日中立ちっぱなしだし、買い出しの荷物だって重いし。
 倒れる前に神様が知らせてくれたんだと思うわ、検査で見つかったおかげでたいしたことなくすむのだから」
「まあ、そうね。もう十分働いてきたんですものね。でも、常連さんが寂しがるでしょうね」
「ええ、だから、今日は半額サービスで感謝の気持ちを伝えるの」
「それで、この後はどうするの?」
「長男が一緒に住まないかって言ってくれているから、そうしようかと思っている」
「それはいいわね」
「郊外に住んでいるから、部屋数はあるらしいの。孫がまだ小さいからジジババとしての務めもありそうだし」
「あら、それはまたとない再就職先じゃない!」
「まあね」
「準備中の忙しい時にお邪魔してごめんなさい。閉店だと聞いたからどうしても来てみたくなって」
「ううん、ありがとう、こうして話ができてよかったわ。最後の定食食べていって」
 
 
     * * * * * *
 
 
 そして、私は――
 昨年、定年を迎えた夫は一年契約で会社に残った。と言っても、週四日勤務で収入は半分に。来年契約を更新するかはまだ決めていないようだ。完全な老後を迎える準備期間といったところだろうか。
 互いに好きなことをして、つかず離れずの距離を保っている。お互い健康でいる限り、この穏やかな暮らしが続いていくだろう。
 今日は久しぶりに、娘一家が遊びにやって来る。天気がいいのでみんなで近くの公園へ行くことにした。早朝からの弁当作りも終わり、あとは娘たちの到着を待つばかりだ。
 やがて訪れた娘夫婦や孫に囲まれ、芝生で食べる弁当。孫の世話を焼く夫はすっかりおじいちゃんだ。もう来年の契約更新は不要――そんな思いが私の胸をかすめた。
 
 
                  終
作品名:ザ・定年 作家名:鏡湖