夜逃げ
声をかけると、彼は反射的に振り向いた。
その刹那の表情は硬かった。しかし声の主がわたしであることが分かると、すぐにその緊張は緩んだ。
「どうしたの、こんなところで」
そろそろ深夜を回ろうとしている時刻だったが、駅の改札口は時ならず混み合っている。終列車を逃したくないのであろう、多くの人たちが駆け足でホームに集まっている。
ミタくんはその人たちの流れの中、券売機でチケットを買っているところだった。
しかしどうも様子がおかしい。何か焦っているようだ。
そういえば、思い当たるふしがある。
ミタくんに会うのは、今日は二度目だった。
その日の午後。わたしは亡父の書斎で、書棚を眺めていた。
父が亡くなってから、書籍は少しずつ処分されていた。
ちらほらと空きのある書棚に、珍しい古地図の大型本シリーズのうちの三冊だけが残っているのを見た。レア本だけど、全巻揃いではない。残念ながら、やはり処分してしまうのが良いだろう。
わたしはすでに独立して実家に住んでいなかったこともあり、遺品整理はわたしの母にまかせきりだった。
わたしは父親の本に思い入れがあったけれども、母はそれほどでもなく、蔵書を機械的にどんどん廃棄しているようだった。父親の蔵書は膨大だったが玉石混交でもあったので、古書店に売る手間をかける値打ちがあるかどうかさえ簡単には判断しづらかった。それに、その家に生活している者としてはとにかく破棄してしまわざるをえない面もあっただろう。
そこに突然、玄関のベルが鳴った。
出てゆくと、ミタくんがそこにいた。
「ちょっと来てみたんだ」
「めずらしいね。お茶でも飲んでいったら?」
わたしは台所にゆき、ガラスコップに冷たい麦茶を入れた。暑い湿った空気の中で、ガラスはすぐに結露する。それをお盆に載せて、ミタくんの前に運んだ。
ミタくんは何も言わず、コップを掴むと、ぐっと一息でそれを飲み干した。
彼のメガネの中で、視線が泳いだ。
「どうしたの?」
「うん。……なんとなく、来てみた」
ミタくんはそう言って、ふたたび神経質そうにあたりを見回した。
彼はいつもと変わらないようにみえた。
いつものもじゃもじゃ頭、大学のゼミ室で会うのと同じようなポロシャツ姿で、手荷物は何も持っていなかった。ちょっと大学にゆく途中で立ち寄ったような風体だ。
でもふだんの飄々としたユーモラスな空気が、今日は消えていた。どこかしら落ち着かず、浮き足だっている。
「なんとなくって、ほんとに、どしたのさ?」
少し冗談めかして訊くと、ああ、とミタくんは生返事をした。
そしてそのまま、妙な間を置いて黙り込んでいたが、やがてぼそっと言った。
「やっぱ俺、帰るわ。」
「えっ?」
問いただす間もなくミタくんは身を翻して、駆けるように門を出た。そしてそこに立てかけてあった古いママチャリに飛び乗って走り出し、やがて角を曲がって見えなくなった。ママチャリのゆるんだチェーンがこするような音を立てて、遠ざかっていった。わたしは呆れてそれを見送った。
「……変なやつ!」
玄関口には、飲み干されたガラスコップが残されていた。
「昼間もあんなだったじゃない。わけ話しなよ」
ミタくんは券売機の取り出し口から切符と思われる紙片を取り出し、こちらを向いた。そして肩を落として、力なく答えた。
「そうだな、おまえには話しておいたほうがいいか。とうとう中国人と友達が来てしまったんだ。もう限界なんだよ。しばらく遠くに行くんだ」
あっ、とわたしは息を呑んだ。そうだったのか。
以前から耳に挟んでいたが、ミタくんはどうもタチの悪い連中と関わってしまったようだ。チャイニーズマフィアや、裏社会の人脈らしい。
わたしにはどうしようもない世界の話だ。
「じゃあ、学校にも来ないの?」
「ああ。しばらく休学することになる」
ミタくんは学校の近くに下宿していたが、おそらくその部屋も解約してしまったのだろうとわたしは思った。
裏社会の人脈から逃れるためには、徹底して足あとを消さなければならない。
「……そう。元気でやってね。落ち着いたら連絡ちょうだいね。住所もね」
ミタくんは頷いたが、たぶん住所は教えてくれないだろうことは分かっていた。少しでも足のつく危険を冒すことはできない。でも、インターネットのSNSがあるから、きっと連絡は取れるだろうな、とわたしは思った。
わたしたちは改札を通り、プラットフォームに上がった。
プラットフォームは混雑していた。
ミタくんは私を待たずどんどん歩いてゆき、そのまま人混みの中に紛れて見えなくなった。最後に後ろを向いたまま、少しだけ手を振ってくれたのが見えた。
終列車が入構してきた。