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人生×リキュール アブサン

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 呷ったグラスに透けて幸子の怒ったような顔が見えた気がした。
 君のせいにした訳じゃないんだと詫びの言葉が口を突く。突っ伏した彼の脳内では、今や無数のスクリーンに、今までの過去が高速再生されている。
 誰かと繋いだ手。罵倒してくる泣き顔。親の困った顔。思わず見とれたウエディングドレスから覗いた白いうなじ。小さな命。侘しい夕飯。気分が悪いのに最高にハイだった。おれは結局、何がしたかったんだ?
「もう、いいんじゃないのか・・・全部捨てても」口から零れた言葉は乾いていた。
「本当にいいのか?」
 聞き覚えがある声に彼が顔を上げると、男が睨んでいた。彼は思わず息を呑む。
 男は目深に被っていたキャップを取り、顔が露わになっていた。その顔。痩せこけた頬を雑草のような白髪混じりの髭が覆い、生気のない眼は落ち窪み、ガサガサに乾燥した唇。変わり果てたその顔は、彼、だった。
 どういうことだ? どうしておれが? 
 いや、嘘だ。この男はこんな顔をしていなかったはずだ。
 記憶をおぼつかなく手繰ろうとしても、無駄だった。霞がかかったようにここまでの記憶が曖昧だ。
 目の前にいる男がおれだとしたら、このおれはなんだ? 誰だ? 誰なんだ?
「背負っているものを全部捨てたら、人生をやり直せると思っているのか?」
 わからないわからないわからない。彼は頭を抱える。なおも自分の声が鳴り響く。
「お前が背負っているものは、お前が選択してきたものじゃないのか?」
 自分の顔と幸子の顔が重なっていく。もう誰なのかすら彼には判別がつかない。
 わからないわからないわからない。おれにはわからない。自分の声は続く。
「そうやって、いつも、わからないままで、考えることをしなかったからだ!」
 彼は、凄まじい悲鳴を上げながら、這いつくばって逃げ出した。
 まるで化け物に追われてような形相の彼が車止めバーの横をすり抜けた時、あの魅惑的な緑の酒がアブサンだと思い出した。
 ーアブサン
 主原料のニガヨモギに幻覚作用のあるツジョンが含まれるがゆえに、数多くの中毒者や廃人、自殺者を産み出した悪魔の酒である。なんてものを飲んでいたのかと、麻痺した頭の片隅から後悔が滲み出ると同時に彼に小さな安堵をもたらした。やはり先程の男は別人で、自分と同じ顔ではなかったのだろう。あれは、アブサンが見せた幻だったのかもしれない。でなきゃ、あんな、あんな奇跡みたいなことがあって堪るか。そこまで気丈になってはみても確かめにいく勇気はない彼は、汗みずくになりながら浮気に勤しむ妻がいる自宅への帰路を一目散に走っていく。
 アブサンの効果なのか、それまで彼を支配していた湿気ったペシシズムはどこへやら、妻が浮気していようがなんだろうが知ったこっちゃない、どうとでもなれよ!そんなオプティズムな爽快さだった。腹の底から笑いが喉元まで迫り上がってくる。
 彼は喘ぎながらハアハアと笑った。
 こんな様子を見て、妻と妻の浮気相手はさぞかし気味悪がって嫌な顔をするのだろう。だが、構わない。
 それでも、おれはもう構わないんだ!はははははー!

 一方公園では、彼の後ろ姿が闇に溶けたのを見届けた男が、音もなくにやりと笑っていた。
 その顔は、彼とは似ても似つかないものだった。
『僕は運が悪かった。君は運がよかった。ただ、それだけのことだ』




 ※アブサン(アブサント、アプサン)
 薬草系リキュールの一つアブサンは、1970年に医師ピエール・オーデイネール博士によって製造された。ニガヨモギを香味の主原料として、アニス、アンゼリカ、フェンネル、スターアニス、シキミ、コリアンダー、パセリ、カモミール、クワガタソウ、パームミント、ヒソップ、オレガノ、カラマス、メリッサなど十五種類を使用。他のリキュールとは一線を画す独特な香りを放つ薄い緑色をした液体は、水を加えると非水溶性分が析出し白濁する特性がある。また、アルコール度数が高く、七十℃以上のものが一般的で中には八十九を越えるものも存在する。ペルノ社によってヨーロッパ各国で拡販され、安値で手に入りやすかったことから気軽に買える酒として流通し、ゴッホを始めとした芸術家を中心に愛飲された。が、主原料であるニガヨモギに含まれるツジョンが、神経系統を犯し幻覚作用をもたらすために中毒者や犯罪者が増えてしまい、1915年にはフランスでアブサン禁止令が発令される事態となってしまう。魔性の酒、悪魔の酒と呼ばれる由来はここにある。二十世紀初頭にはスイス・ドイツ・アメリカなどでも製造から飲用全てが禁止された。その後、ニガヨモギを使わないアニス、リコリス風味でアブサンに似た香味の酒が作られ発売されている。
 飲み方としては、ドリップの他、ソーダやトニックウォーターで割ったり、「コンチネンタル・ハイボール」や「アブサン・グラスホッパー」「モンマルトル・ミュール」などのカクテルにしても美味しい。どれもマイルドな飲み口なので、禁断の酒の味を気軽に味わうことができるだろう。