神田の驟雨
私は仕事で、配達の途中だった。急ぎで頼まれた薬の小包である。
神保町から靖国通りを通り、小川町の近くまで流して来たところで、急に空が曇り、にわか雨が降ってきた。
ぽつぽつ来たかと思うと、すぐ大粒になった。
驟雨である。
——こりゃあ、いけない。
私は近くの古本屋に入り、雨宿りをすることにした。
そこは、古本屋といっても、きちんとした店構えの店舗ではなかった。
古いガレージか倉庫のような建物であり、おそらく、空きを利用するために一時的に短期貸ししているのだろう。
自転車を入り口の近くに置いて、私は中を物色してみた。
壁面には書棚が並び、雑本がところ構わず押し込まれている。
中央にはいくつもテーブルが置かれ、卓上にはやはり本が所狭しと立て並べられていた。
いずれも未整理であり、古本市からそのまま持ってきた在庫であろうか。ひょっとしたら、逆に、これから市に出そうとする古本を、保管がてら売ろうとしているのかもしれない。
天井は配管がむき出しだった。
二階には事務所らしい小部屋があり、らせん階段で上ってゆけるようになっている。
しかし小部屋の窓には灯りはなく、使われていないようであった。
窓のガラスはひび割れており、テープで修繕してあったが、それも埃だらけであり、ずいぶん長いこと放置されていることを物語っていた。
店の片隅にはレジスターが設置されており、やる気のなさそうな中年男性の店番がその前に座っている。
雨は止みそうになかった。
遠くで何度か雷鳴がとどろき、稲妻が光った。
足止めを食らったかたちで、私は雨宿りのあいだ古本を見ることにした。
雑本がほとんどであったが、その中にも、いくつかの「群れ」が見受けられた。
ある一角には、昭和三十年代のエッセイが多く、別の一角には昭和五十年代の政治関係書籍がたくさん並んでいる、といった具合である。
元の所有者が同じ本がそれぞれまとまっているのか、それとも、市に出すためにまとめられているのか、どちらかは分からない。
二、三十分ほど棚を見ていただろうか。
何冊かの安い出物を見つけ、会計を済ませた。
しかし、雨は相変わらず、小降りになる気配すらない。
店の外は土砂降りで、道には水があふれ、濁流となって渦巻き、ちょっとした洪水のようになってしまっていた。
——もう少し待つしかないのか。
そう思ったとき、もうひとり、知らない女性が本を物色しているのに気がついた。
三十代くらいであろうか。
黒いワンピース姿で、手入れされた黒髪がよく映えていた。
どうやら出版関係者らしく、知的な雰囲気をまとっている。
彼女のほうも私に気づいた。
そしてあまり表情を変えず、少し会釈して、言った。
——ここは歴史的な建物なんですよ。ごぞんじでしたか?
いえ、知りませんでした、と私は慌てて答えた。
彼女はつづけた。
——その証拠に、ほら、あの階段を見てください。
そうしてらせん階段のそばに近づくと、そこに私を招いた。
彼女の言うとおりだった。
金属のラッタルを下から見ると、段の裏側に漫画家のサインと、その漫画家のイラストがサインペンで描かれている。
それぞれ一段に一人ずつ、ほぼすべての段に多くの作家の筆跡が残されていた。
日付はいずれも古く、十数年前から二十年近く前のものまであるようだ。
——あっ、これは、××さんだ。
そのうちのひとつが、今では有名になった作家の若い頃の筆跡であることに私は気付いて、驚いた。
(まだ、他にもそのような筆跡があるかもしれないな)
そう思うと、私は少し興奮してきた。