龍の巫女 前篇
龍の巫女
藪に潜り込んでいた少年は、父の探す声が聞こえないのを確認して、そろそろと出てきた。懐から横笛を取り出して、ほっと息を吐く。どうやら彼の宝物に傷はついていないようだ。
着物の汚れをはたいてから呼吸を整え、唇に当てる。繊細な音が周囲に響き始めた。
「ほう、上手いものだな」
背後からの声に、少年は弾かれたように立ち上がる。後ろ手に笛を隠して振り向くと、白い着物に赤い袴姿の少女がにやにやしながら見ていた。
「なにを慌てている? さては、武芸の稽古をさぼって姿をくらました子どもとはお前か」
「あ・・・・・・あの・・・・・・」
「ふふ、そう心配せずとも良い。言いつけたりはせぬよ。お前、年は?」
「六つに・・・・・・なります」
「私は十四だ。お前より年上だな」
ふふふと笑う少女。少年は助けを求めるように周囲を見回す。この状況から逃げ出せるなら、怒り狂った父に連れ戻されたほうがよほどましだった。
「なんだ、私と話すのは嫌か?」
「い、いえ、そんな。あのっ・・・・・・」
「まあ良い。私もそろそろ戻らねばならぬからな。お前、十六になったら、お前の笛を聞かせておくれ。ふふ、楽しみにしているぞ」
言うだけ言って、少女はさっさと立ち去る。少年は呆けた顔でその後ろ姿を見送った。
その少女ーー自分達が仕える、龍の巫女を。
龍の巫女。
神通力に長けた少女が選ばれ、世の太平を水神に祈る役目を負う。
水神の加護を得た巫女は不老不死となり、生の全てを水神に捧げる存在だった。
ほとんどの者は数年から長くて十年ほどで力を失い、お役目を解かれる。だが、今、目の前に現れた巫女は・・・・・・
「アマネ! お前はこんなところにいたのか!!」
少年は父の怒声で我に返る。慌てて笛を懐にしまうと、うなだれて父が近づいてくるのを待った。
「全くお前という奴は! ミコト様にお仕えするという名誉あるお役目を、お前の代で潰す気か!!」
「あ、あの・・・・・・父上・・・・・・!」
その巫女が、ミコト様が、自分の笛を所望したのだと。十六になったら巫女にお仕えする、その時の目通りの席で、自分の笛を聞かせてくれと言ったのだと。
だが、アマネは言葉を飲み込んで、「申し訳ありません」と呟くに留めた。名も聞かずに背を向けたのだ、ただの気まぐれに違いない。
そう、ただの気まぐれだろう。相手は三百年に渡ってお役目を務める、歴代最年長の巫女なのだから。
十年後ーー
十六歳となったアマネは、父とともにミコトの屋敷に通される。
この十年、心を入れ替えて武芸に精を出したアマネは、自慢の息子となっていた。
アマネはミコトを待ちながら、懐に忍ばせた横笛のことを考えまいと必死になる。十年前の戯れ言など覚えているはずがない。そのような些事に心を向ける暇など、龍の巫女にはないのだ。それでも、この十年、決して練習を怠らなかった。万が一にも失礼のないように。
そう・・・・・・もしかしたら、自分を覚えていてくれるかもしれない、と。
衣擦れの音とともに、侍女に連れられたミコトが現れた。恭しく手をつき頭を下げる親子に、龍の巫女は鷹揚に声を掛ける。
「ああ、お前か・・・・・・。アマネ、というのだな」
十年前と変わらぬ声が、アマネの耳に届いた。
「では早速、笛を聞かせてくれぬか?」
アマネの奏でる美しい笛の音に、侍女達はうっとりと目を細める。笛の腕前もさることながら、音色に負けぬほど見目麗しい青年となれば、聞き惚れるなというほうが無理な話だ。
だが、その演奏は手を叩く甲高い音に遮られる。
「お前達、手を止める暇があるなら、あちらを手伝ってこい」
「ミ、ミコト様! 申し訳ございません!」
慌てて走り去る侍女を尻目に、アマネは笑顔をミコトに向ける。
「おや、ミコト様。ご機嫌斜めのようですね?」
「当たり前だ、馬鹿者。私の顔に泥を塗りおって」
ミコトは腰に手を当ててアマネを睨みつけた。
「また見合いを蹴ったそうだな? なにが不満だ?」
「不満など・・・・・・私では釣り合いがとれないほどのお話だからですよ」
「家柄も申し分ない、年も若い、器量も性格も良い。この私がわざわざ選んでやったのだぞ。それを断るなど」
足を踏みならして怒りを表すミコトに、アマネはふふっと笑う。
「龍の巫女ともあろうお方が、はしたないですよ?」
「お前が筋の通らぬことを繰り返すからだ! この朴念仁が!」
「その朴念仁には勿体ないほどの女性です。もっと釣り合いのとれる男の元に嫁いだ方が良いでしょう」
「お前はもう二十六だぞ。とうに嫁を娶り子を成しているべきだ。お前の代で家を終わらせる気か」
「おや、もうお仕えしてから十年ですか・・・・・・早いものですね」
「話を聞け!!」
「聞いておりますよ、ミコト様」
アマネはミコトに手を差し出すと、
「さあ、戻りましょう。お体を冷やしてはいけません」
「・・・・・・・・・・・・」
むくれた顔でミコトはアマネの手を取った。
「全く・・・・・・頑固なのは父親譲りだな」
「ミコト様にそう言っていただけるとは、光栄です」
「褒めてない!」
二十年、か。
アマネは夜空に浮かぶ月を眺めながら、物思いに耽る。
初めて会った時から、ミコトは十四歳の姿のままだ。惨いことだとは思うが、彼女が時を止めていなければ、自分は出会うこともなかったのだとも思う。
この想いを抱いたのはいつからだったろうか。隠れて笛を吹いていたあの時か、二度目に笛を望まれた時か。どちらであっても、心が変わる訳ではないが。
許されぬ想いならば・・・・・・せめて、この身が朽ちるまでお側でお仕えしたい。
妻を娶り子を成せば、次に役目を譲らねばならない。それは身を裂かれるよりも辛いことだ。ミコトには己の我が侭で家を終わらせる気かと叱られそうだが、幸いにも妹がいる。そちらが婿を取ればいい。
二十六、か。
自分の方が年上だと得意げだった少女を、あっという間に追い越してしまった。年々、差が離れていくばかり。水神は、いつ彼女を手放すのだろうか。
今すぐ私に譲ってくだされば、生涯大切にいたしますのに。
口にするどころか、心に秘めることさえ許されない想い。それでも、アマネに手放す気はなかった。
この想いも。ミコトの隣も。
ミコトは灯りを引き寄せ本を開く。だが、二・三行読むだけでも苦痛なほど、心は昼間の出来事に引き寄せられた。はあと溜め息をついて本を閉じる。
あの馬鹿は何が不満なのだ。
いつまで経っても嫁を取らない息子に業を煮やした両親から頼み込まれ、最上の相手を用意してやったというのに。まあ、相手方も断られたとはいえ、龍の巫女のお墨付きがあるのだ。良縁には事欠かないだろう。
・・・・・・苛々させられる男だ。
アマネを世話役にしたのは失敗だったか。気づいたら隣にいて、心の内に平気で踏み込んでくる。アマネの前でだけは、気を張る必要がないほどに。気を抜いて、お役目を疎かにしかねないほどに。
だから早く嫁を取らせたかった。子が十六になれば、役目を交代する。そもそも、所帯を持てばアマネもこちらにかまけることもなくなるだろう。
藪に潜り込んでいた少年は、父の探す声が聞こえないのを確認して、そろそろと出てきた。懐から横笛を取り出して、ほっと息を吐く。どうやら彼の宝物に傷はついていないようだ。
着物の汚れをはたいてから呼吸を整え、唇に当てる。繊細な音が周囲に響き始めた。
「ほう、上手いものだな」
背後からの声に、少年は弾かれたように立ち上がる。後ろ手に笛を隠して振り向くと、白い着物に赤い袴姿の少女がにやにやしながら見ていた。
「なにを慌てている? さては、武芸の稽古をさぼって姿をくらました子どもとはお前か」
「あ・・・・・・あの・・・・・・」
「ふふ、そう心配せずとも良い。言いつけたりはせぬよ。お前、年は?」
「六つに・・・・・・なります」
「私は十四だ。お前より年上だな」
ふふふと笑う少女。少年は助けを求めるように周囲を見回す。この状況から逃げ出せるなら、怒り狂った父に連れ戻されたほうがよほどましだった。
「なんだ、私と話すのは嫌か?」
「い、いえ、そんな。あのっ・・・・・・」
「まあ良い。私もそろそろ戻らねばならぬからな。お前、十六になったら、お前の笛を聞かせておくれ。ふふ、楽しみにしているぞ」
言うだけ言って、少女はさっさと立ち去る。少年は呆けた顔でその後ろ姿を見送った。
その少女ーー自分達が仕える、龍の巫女を。
龍の巫女。
神通力に長けた少女が選ばれ、世の太平を水神に祈る役目を負う。
水神の加護を得た巫女は不老不死となり、生の全てを水神に捧げる存在だった。
ほとんどの者は数年から長くて十年ほどで力を失い、お役目を解かれる。だが、今、目の前に現れた巫女は・・・・・・
「アマネ! お前はこんなところにいたのか!!」
少年は父の怒声で我に返る。慌てて笛を懐にしまうと、うなだれて父が近づいてくるのを待った。
「全くお前という奴は! ミコト様にお仕えするという名誉あるお役目を、お前の代で潰す気か!!」
「あ、あの・・・・・・父上・・・・・・!」
その巫女が、ミコト様が、自分の笛を所望したのだと。十六になったら巫女にお仕えする、その時の目通りの席で、自分の笛を聞かせてくれと言ったのだと。
だが、アマネは言葉を飲み込んで、「申し訳ありません」と呟くに留めた。名も聞かずに背を向けたのだ、ただの気まぐれに違いない。
そう、ただの気まぐれだろう。相手は三百年に渡ってお役目を務める、歴代最年長の巫女なのだから。
十年後ーー
十六歳となったアマネは、父とともにミコトの屋敷に通される。
この十年、心を入れ替えて武芸に精を出したアマネは、自慢の息子となっていた。
アマネはミコトを待ちながら、懐に忍ばせた横笛のことを考えまいと必死になる。十年前の戯れ言など覚えているはずがない。そのような些事に心を向ける暇など、龍の巫女にはないのだ。それでも、この十年、決して練習を怠らなかった。万が一にも失礼のないように。
そう・・・・・・もしかしたら、自分を覚えていてくれるかもしれない、と。
衣擦れの音とともに、侍女に連れられたミコトが現れた。恭しく手をつき頭を下げる親子に、龍の巫女は鷹揚に声を掛ける。
「ああ、お前か・・・・・・。アマネ、というのだな」
十年前と変わらぬ声が、アマネの耳に届いた。
「では早速、笛を聞かせてくれぬか?」
アマネの奏でる美しい笛の音に、侍女達はうっとりと目を細める。笛の腕前もさることながら、音色に負けぬほど見目麗しい青年となれば、聞き惚れるなというほうが無理な話だ。
だが、その演奏は手を叩く甲高い音に遮られる。
「お前達、手を止める暇があるなら、あちらを手伝ってこい」
「ミ、ミコト様! 申し訳ございません!」
慌てて走り去る侍女を尻目に、アマネは笑顔をミコトに向ける。
「おや、ミコト様。ご機嫌斜めのようですね?」
「当たり前だ、馬鹿者。私の顔に泥を塗りおって」
ミコトは腰に手を当ててアマネを睨みつけた。
「また見合いを蹴ったそうだな? なにが不満だ?」
「不満など・・・・・・私では釣り合いがとれないほどのお話だからですよ」
「家柄も申し分ない、年も若い、器量も性格も良い。この私がわざわざ選んでやったのだぞ。それを断るなど」
足を踏みならして怒りを表すミコトに、アマネはふふっと笑う。
「龍の巫女ともあろうお方が、はしたないですよ?」
「お前が筋の通らぬことを繰り返すからだ! この朴念仁が!」
「その朴念仁には勿体ないほどの女性です。もっと釣り合いのとれる男の元に嫁いだ方が良いでしょう」
「お前はもう二十六だぞ。とうに嫁を娶り子を成しているべきだ。お前の代で家を終わらせる気か」
「おや、もうお仕えしてから十年ですか・・・・・・早いものですね」
「話を聞け!!」
「聞いておりますよ、ミコト様」
アマネはミコトに手を差し出すと、
「さあ、戻りましょう。お体を冷やしてはいけません」
「・・・・・・・・・・・・」
むくれた顔でミコトはアマネの手を取った。
「全く・・・・・・頑固なのは父親譲りだな」
「ミコト様にそう言っていただけるとは、光栄です」
「褒めてない!」
二十年、か。
アマネは夜空に浮かぶ月を眺めながら、物思いに耽る。
初めて会った時から、ミコトは十四歳の姿のままだ。惨いことだとは思うが、彼女が時を止めていなければ、自分は出会うこともなかったのだとも思う。
この想いを抱いたのはいつからだったろうか。隠れて笛を吹いていたあの時か、二度目に笛を望まれた時か。どちらであっても、心が変わる訳ではないが。
許されぬ想いならば・・・・・・せめて、この身が朽ちるまでお側でお仕えしたい。
妻を娶り子を成せば、次に役目を譲らねばならない。それは身を裂かれるよりも辛いことだ。ミコトには己の我が侭で家を終わらせる気かと叱られそうだが、幸いにも妹がいる。そちらが婿を取ればいい。
二十六、か。
自分の方が年上だと得意げだった少女を、あっという間に追い越してしまった。年々、差が離れていくばかり。水神は、いつ彼女を手放すのだろうか。
今すぐ私に譲ってくだされば、生涯大切にいたしますのに。
口にするどころか、心に秘めることさえ許されない想い。それでも、アマネに手放す気はなかった。
この想いも。ミコトの隣も。
ミコトは灯りを引き寄せ本を開く。だが、二・三行読むだけでも苦痛なほど、心は昼間の出来事に引き寄せられた。はあと溜め息をついて本を閉じる。
あの馬鹿は何が不満なのだ。
いつまで経っても嫁を取らない息子に業を煮やした両親から頼み込まれ、最上の相手を用意してやったというのに。まあ、相手方も断られたとはいえ、龍の巫女のお墨付きがあるのだ。良縁には事欠かないだろう。
・・・・・・苛々させられる男だ。
アマネを世話役にしたのは失敗だったか。気づいたら隣にいて、心の内に平気で踏み込んでくる。アマネの前でだけは、気を張る必要がないほどに。気を抜いて、お役目を疎かにしかねないほどに。
だから早く嫁を取らせたかった。子が十六になれば、役目を交代する。そもそも、所帯を持てばアマネもこちらにかまけることもなくなるだろう。