輝きの人
<章=序章 新藤テルの近況>
「テル!そろそろ塾の時間よ!自転車、家の前まで出しといたからね。」一階にいる母さんの声。小学3年生を相手にするような話し方で、いつも塾に送り出される。こういう話し方を猫撫で声っていうんだろうな。
「わかってる。もう行くよ。」
僕は従順に返事を返す。近頃の高校2年生なら、うるせぇ、とか怒鳴り返す奴もいるかもしれないのに。 そう、僕は改めて自分が高校2年生なんだと自覚した。爺さんの様だが、歳をとるのはホントに早い。中高一貫の学校に通っている僕は中学校を別段、部活に入って全国大会を目指す青春を過ごしていた訳でも、学校の裏で集まって煙草を吸って、他校に殴りこみをかける不良時代を過ごした訳でもない。 ただ、他の奴らと違うところは異常な程の勉強量。父親は、「黄金の右腕」と呼ばれる名医なのだ。当然、息子は「黄金の右腕」ジュニアにならなくてはいけない。
カッコよく言えば「運命」だが、僕からすれば、それは単なる押し付けでしかない。高2になった今では中学校時代からの勉強習慣は僕を苦しめ、両親の期待が僕をがんじがらめにする。 まったく、ため息が出る。
今日だってため息を吐きながら、一階へと階段をズリズリと下りていく。父さんの恩恵にあずかった一般家庭のそれよりはるかに豪華なキッチンでは、母さんが鍋を掻き混ぜている。
「定期は持った?電車の時間、間違わないようにね。」
「毎回、毎回言わなくてもわかってるって。それじゃ、行ってきます。」
僕は母さんが「いってらっしゃい」と言うのを聞くより前に玄関のドアを閉めた。
外に出て、自分の家を見上げると、この地域は、いわゆる高級団地で周りの家々も立派に立ち並んでいるにもかかわらず、我が家だけ海外の高級ホテルの様な雰囲気を作っている。僕は父さんの外科としての評判とこの家は、比例しているんじゃないかって思う。父さんが世界に誇れる手術を一つ成功させる度に、この家は一階分ずつ増えていき、やがて天まで届く。
ただ、この家は僕にとっては巨大な鳥籠で、僕は世界中に数羽しか存在しない鳥。僕が必要な物は言わずとも用意してくれる。食べ物や水だって、普通のサラリーマンが食べるものより数倍、良いものが食べられるのだ。今の人生よりも、僕の人生と交代する方がマシだと言う者がいてもおかしくないだろう。
でも、僕はそんな自由の無い自分の人生が大嫌いだ。有り余る程の大金よりも何か一つ夢中になれるモノの方が、僕は欲しい。どれだけ良い所に住んでも、どれ程美味いものが食べられても、ホントに欲しいモノを手に入れる事が出来ないのなら、そんな待遇は意味がない事を僕は知っていたんだ。
しかし今は一時的にだが、もう両親に縛られる事はない。一度、外に出てしまえばこっちのものだ。
僕は自転車に跨って、意気揚々とペダルを漕ぐ。鳥籠をすり抜けた鳥は気持ちよく空を舞うものだ。 ところで僕の通う塾は、進学校専門の授業だけを行う超エリート塾だ。しかし、これも、もちろん僕が望んで行きたがった訳ではない。なにより、僕は勉強が世界で一番嫌いだ、憎いと言っても過言ではない。かと言ってあながち成績が悪い訳でもないのが、かえって僕をあたかも天才であるかのように見せているのかも。
それはそうとして、僕の通うそのエリート塾は、我が家である新藤邸から自転車で15分程ユルユルと漕いで行けば到着する駅から地下鉄で二駅の所にある。総合すると30分かからない程で着くという訳だ。そして、勉強を最も憎む僕にとっては地獄の4時間授業が始まる。
だから、僕は今日も塾へは行かない。自転車を駅の駐輪所に乱雑に停めて、駅の中へと足を速める。今は会社勤めの男たちが疲れを背負って家路につく時間帯だ。すれ違う男性は、大抵灰色のオーラが放たれている。
正直に言うと、僕は半年程前から(いや、もっと前からか?)塾など、とうに行くのを辞めた。そんな拷問には耐えられる筈も無かったから。でも、そうするとこの4時間という堪らなく長い時間をどう過ごすかって問題にぶち当たる。そこで、僕はエキサイティングかつスリリングなゲームを行う事にした。今では、僕はこの暇つぶしに相当な自信を持って臨んでいる。今日だって自信満々だ。負ける気はさらさら無い。
ただ、いつもはゲームの為だけに地下鉄には乗るのだが、今日という日は特別だ。ゲームは一回だけする事にする。仕方ないさ、ある場所に行かなくてはならないワケがあるんだから。
ICカードを改札口にかざすと、やけに電子的な効果音が響いて、僕の太腿辺りのゲートがノロノロと開く。地下の乗り場には帰宅するサラリーマンの群れができていた。この群れは僕がこの時間帯に来ると必ずいる。普通なら、こんな腹が出て頭が薄らいできているオヤジの中、揺られて行くのは気持ちが悪いとまでは言わないが、決して良いものでもないだろう。ただ、僕は違う。この群れは僕の心を昂ぶらせる。乗り場へと続く階段を下っている今でも、胸の奥がゾクゾクとしているが、顔には出さない。オヤジの群れに近付いて立ったその時、乗り場に、そして僕の耳に盛大なベルが響き渡る。列車到着の鐘。
ゲームスタートだ。
列車が滑る様に突っ込んでくる。そして、ゆっくりと停止し、扉が滑らかにスライドする。まず、最前列に並ぶオヤジ達が雪崩込む。その後ろを離されないように僕もその波に、どうにか乗る。車内はいつもと同じく満員で、この中で椅子に座るのは至難の業だ。
僕は、適当に車両の真ん中辺りにポジションをとり、吊革にぶら下がると、そこから注意深く周りの大人達を観察する。様々な職種の人間に圧迫される中で、どうにか首を回す。帰宅するサラリーマン、小声で話をするOLっぽい二人組、壁にもたれ掛かって最近流行りのゲーム機に熱中する男の子、ケータイを物凄い速さでイジる女子高生。ここには、ホントに色んな人々がいる。その一人、一人を僕は入念に見つめ回し、標的を絞り込んでいく。
その標的が、僕の目的地までに降りてしまう事もあったが、ようやく次が僕が降りる駅だという時、一人の男をターゲットに設定した。でっぷりとした体形で枠の大きな眼鏡を掛けているその男は、少しずつだが車内が空き始めたので、ようやく吊革に?まる事が出来た様だった。さっきまでは太った中年の腹を周りの人達に挟まれて居心地が悪そうだったが、よく見るとスーツや靴は高価な物だ。社内ではそこそこの役職に就いている人なのかも。
「テル!そろそろ塾の時間よ!自転車、家の前まで出しといたからね。」一階にいる母さんの声。小学3年生を相手にするような話し方で、いつも塾に送り出される。こういう話し方を猫撫で声っていうんだろうな。
「わかってる。もう行くよ。」
僕は従順に返事を返す。近頃の高校2年生なら、うるせぇ、とか怒鳴り返す奴もいるかもしれないのに。 そう、僕は改めて自分が高校2年生なんだと自覚した。爺さんの様だが、歳をとるのはホントに早い。中高一貫の学校に通っている僕は中学校を別段、部活に入って全国大会を目指す青春を過ごしていた訳でも、学校の裏で集まって煙草を吸って、他校に殴りこみをかける不良時代を過ごした訳でもない。 ただ、他の奴らと違うところは異常な程の勉強量。父親は、「黄金の右腕」と呼ばれる名医なのだ。当然、息子は「黄金の右腕」ジュニアにならなくてはいけない。
カッコよく言えば「運命」だが、僕からすれば、それは単なる押し付けでしかない。高2になった今では中学校時代からの勉強習慣は僕を苦しめ、両親の期待が僕をがんじがらめにする。 まったく、ため息が出る。
今日だってため息を吐きながら、一階へと階段をズリズリと下りていく。父さんの恩恵にあずかった一般家庭のそれよりはるかに豪華なキッチンでは、母さんが鍋を掻き混ぜている。
「定期は持った?電車の時間、間違わないようにね。」
「毎回、毎回言わなくてもわかってるって。それじゃ、行ってきます。」
僕は母さんが「いってらっしゃい」と言うのを聞くより前に玄関のドアを閉めた。
外に出て、自分の家を見上げると、この地域は、いわゆる高級団地で周りの家々も立派に立ち並んでいるにもかかわらず、我が家だけ海外の高級ホテルの様な雰囲気を作っている。僕は父さんの外科としての評判とこの家は、比例しているんじゃないかって思う。父さんが世界に誇れる手術を一つ成功させる度に、この家は一階分ずつ増えていき、やがて天まで届く。
ただ、この家は僕にとっては巨大な鳥籠で、僕は世界中に数羽しか存在しない鳥。僕が必要な物は言わずとも用意してくれる。食べ物や水だって、普通のサラリーマンが食べるものより数倍、良いものが食べられるのだ。今の人生よりも、僕の人生と交代する方がマシだと言う者がいてもおかしくないだろう。
でも、僕はそんな自由の無い自分の人生が大嫌いだ。有り余る程の大金よりも何か一つ夢中になれるモノの方が、僕は欲しい。どれだけ良い所に住んでも、どれ程美味いものが食べられても、ホントに欲しいモノを手に入れる事が出来ないのなら、そんな待遇は意味がない事を僕は知っていたんだ。
しかし今は一時的にだが、もう両親に縛られる事はない。一度、外に出てしまえばこっちのものだ。
僕は自転車に跨って、意気揚々とペダルを漕ぐ。鳥籠をすり抜けた鳥は気持ちよく空を舞うものだ。 ところで僕の通う塾は、進学校専門の授業だけを行う超エリート塾だ。しかし、これも、もちろん僕が望んで行きたがった訳ではない。なにより、僕は勉強が世界で一番嫌いだ、憎いと言っても過言ではない。かと言ってあながち成績が悪い訳でもないのが、かえって僕をあたかも天才であるかのように見せているのかも。
それはそうとして、僕の通うそのエリート塾は、我が家である新藤邸から自転車で15分程ユルユルと漕いで行けば到着する駅から地下鉄で二駅の所にある。総合すると30分かからない程で着くという訳だ。そして、勉強を最も憎む僕にとっては地獄の4時間授業が始まる。
だから、僕は今日も塾へは行かない。自転車を駅の駐輪所に乱雑に停めて、駅の中へと足を速める。今は会社勤めの男たちが疲れを背負って家路につく時間帯だ。すれ違う男性は、大抵灰色のオーラが放たれている。
正直に言うと、僕は半年程前から(いや、もっと前からか?)塾など、とうに行くのを辞めた。そんな拷問には耐えられる筈も無かったから。でも、そうするとこの4時間という堪らなく長い時間をどう過ごすかって問題にぶち当たる。そこで、僕はエキサイティングかつスリリングなゲームを行う事にした。今では、僕はこの暇つぶしに相当な自信を持って臨んでいる。今日だって自信満々だ。負ける気はさらさら無い。
ただ、いつもはゲームの為だけに地下鉄には乗るのだが、今日という日は特別だ。ゲームは一回だけする事にする。仕方ないさ、ある場所に行かなくてはならないワケがあるんだから。
ICカードを改札口にかざすと、やけに電子的な効果音が響いて、僕の太腿辺りのゲートがノロノロと開く。地下の乗り場には帰宅するサラリーマンの群れができていた。この群れは僕がこの時間帯に来ると必ずいる。普通なら、こんな腹が出て頭が薄らいできているオヤジの中、揺られて行くのは気持ちが悪いとまでは言わないが、決して良いものでもないだろう。ただ、僕は違う。この群れは僕の心を昂ぶらせる。乗り場へと続く階段を下っている今でも、胸の奥がゾクゾクとしているが、顔には出さない。オヤジの群れに近付いて立ったその時、乗り場に、そして僕の耳に盛大なベルが響き渡る。列車到着の鐘。
ゲームスタートだ。
列車が滑る様に突っ込んでくる。そして、ゆっくりと停止し、扉が滑らかにスライドする。まず、最前列に並ぶオヤジ達が雪崩込む。その後ろを離されないように僕もその波に、どうにか乗る。車内はいつもと同じく満員で、この中で椅子に座るのは至難の業だ。
僕は、適当に車両の真ん中辺りにポジションをとり、吊革にぶら下がると、そこから注意深く周りの大人達を観察する。様々な職種の人間に圧迫される中で、どうにか首を回す。帰宅するサラリーマン、小声で話をするOLっぽい二人組、壁にもたれ掛かって最近流行りのゲーム機に熱中する男の子、ケータイを物凄い速さでイジる女子高生。ここには、ホントに色んな人々がいる。その一人、一人を僕は入念に見つめ回し、標的を絞り込んでいく。
その標的が、僕の目的地までに降りてしまう事もあったが、ようやく次が僕が降りる駅だという時、一人の男をターゲットに設定した。でっぷりとした体形で枠の大きな眼鏡を掛けているその男は、少しずつだが車内が空き始めたので、ようやく吊革に?まる事が出来た様だった。さっきまでは太った中年の腹を周りの人達に挟まれて居心地が悪そうだったが、よく見るとスーツや靴は高価な物だ。社内ではそこそこの役職に就いている人なのかも。