愛シテル
と、彼は身体を寄せて来た。ますます唇を引き結んで、りく也は身体をずらす。
ピアノからアンサンブルの演奏に変わり、フロアではダンスを楽しむ姿も見られたが、同性同士で踊っているのはやはりその手の人間という事なのだろう。ゲイに偏見はないが、自分も同類に見られるのは不本意なりく也だった。
「二人きりになれる静かなところにいかない?」
ヴィヴィアンは一層媚びた調子で、りく也のタキシードの長いカラーに触れ、下から上に手を滑らせた。りく也が払うより先に、背後から大きな手がニュッと伸びて、その手を掴んだ。驚いた青年が振り返る。長身のユアンが彼を見下ろしていた。
「すまないけど、私の大事な人だから、遠慮してもらえないかな、ヴィヴィアン?」
「大事な人? え、もしかして、彼、リクヤ・ナカハラなの?」
リクヤ・ナカハラの部分が強調されて、声が大きくなった。
「え? リクヤ・ナカハラ?」
と、まず近くのテーブルに居たカップルが振り返り、
「リクヤ・ナカハラだってさ」
次々と伝言ゲームのように、「リクヤ・ナカハラ?」の疑問形はフロアを走った。あっと言う間に周りには人が集まり、興味津々の視線にりく也は晒された。セクシーだと誉められた不機嫌な口元が緩む。笑みのせいではなく驚きのためであり、多くの目に気圧されて一歩後ろに無意識に下がった。しかしすぐに唇を結びなおし、ユアンを睨む。
「彼が噂のリクヤ・ナカハラか。ユアンも水臭い。呼んでいるのなら、さっさと紹介してくれなけりゃ。初めまして、確かドクターでしたよね? 僕はデニス・ケニングス。お噂はかねがね。ユアンから耳たこですよ」
横幅のある男がまず歩み出て、ポッテリした右手を差し出した。
「どんな噂?」
大人だから仕方なく握手をする。りく也の問いには次に手を差し出した気障な口ひげの男が答えた。
「もう十何年もぞっこんだって話。どんな相手にも本気にならないくらいにね。僕はレナート・スレイ」
「ゲイブル・ジャスパーだ。ツアーから戻ると必ず君のところへ行くだろう? 妬けるねぇ」
「なのに、誰にも紹介してくれないのよ。こんな隅に隠しておくなんて。私はエディスよ、よろしくね」
エディスと名乗った女には見覚えがある。スーパーと称されるモデルで、以前、マクレインにも来たことがあった。誰が診るかでレジデント達が、ジャンケンで決めていたことを思い出す。
「確か、マクレインに来ていたな?」
「覚えていてくれたのね? そうなの、ちょっとあなたの顔を見に。でも、忙しくて診てくれなかったわね。さんざん待たされたあげく、むさいドクターに足を触られて虫唾が走ったわ。ユアンと同年代の一般人だって聞いたから、どんなおじ様かと思ったけど、あなたならぜんぜんオッケイよ」
普段ならりく也も「全然オッケイ」なのだが、この状況では口説く気も起こらない。彼女の話が終わらない内に、また違う人間が割り込んだ。彼が終わればまた別の人間――ユアンがどれくらいりく也のことを自慢しているかを、自己紹介とともに聞かされる。周りの目はりく也の何らかのリアクションを期待していて、見世物のようでいい気持ちがしなかった。
大人としてのりく也の分別にも、そろそろ限界が見えて来た頃、
「みんな、そろそろそれぐらいにしてくれないかな。私の愛しい人の機嫌が、これ以上悪くならないうちに」
とユアンがりく也の肩に腕を回した。ヒュッと誰かが口笛を鳴らしたのと、りく也がユアンに肘鉄をくらわしたのは同時だった。
「俺は見世物じゃない」
りく也は腰を折ったユアンの耳元にそう囁くと、その場を離れた。怒鳴らなかったのは、欠片で残った分別ゆえだ。だから呼び止められても振り返らない。振り返れば今度こそ、怒鳴ってしまうに違いなかった。
上着を脱ぎ、蝶タイを取った。それからエメラルドのカフスを外してシャツのボタンを緩める。フロント・マンが何事かと見守る中、それらをフロント・テーブルの上に無造作に置くと、りく也は車を呼ぶように頼んだ。
「これはユアン・グリフィスに返しておいてくれないか」
ロビーのソファに腰を下ろし、車を待つ。朝、理由もわからないままに連れて来られたから、鍵も財布もない。とりあえずマクレインに行けばなんとかなるだろう。あの忌々しいジェフリー・ジョーンズにこの責任を取らせてやる。りく也はそう算段した。
目の奥が痛い。寝不足のせいだ。両手で目を抑えて車を待つりく也の隣で、スプリングが軋んだ。コロンの匂いはテリュ・リリュのメンズ、座ったのが誰かは見なくてもわかった。
「リクヤ」
甘めのコロンに似合ったユアンの声が聞こえた。無反応のりく也に、再度「リクヤ」と呼びかける。
「なんだ?」
目を押さえたまま、答えてやる。
「気を悪くした? みんな、君に会いたがっていたから」
「寝不足で疲れてるだけだ。鍵、持ってるなら返せよ」
「ハミルトンが持っているから、少し待っていてくれないか?」
「ならいい。マクレインに行くから。鍵もそっちに持って来させろ」
「でも、オフだろう? 私の部屋で休んでいけばいい。後で送らせるよ」
「仮眠室で寝る。もう戻れよ。主賓が抜けたらマズいだろうが」
ユアンの手がりく也の左手にかかり、やんわりと目から外した。覗き込む青い瞳。金髪は白っぽくなったが、この鮮やかな青だけは変わらない。笑みが浮かんでいるのが見える。
「なんだよ?」
右手は自ら外して、彼を見る。
「君はいつも怒ってばかりだ」
「おまえが気に障ることをするからだろう」
「私にだけだよね、そんな顔をするのは?」
ユアンが左手を握ったままだったので、それを振りほどく。少し強かったかも知れない。しかし彼は気にするどころか、とても嬉しそうに微笑んだ。
「誰も知らないリクヤ・ナカハラだ。私だけの」
「何、言ってやがる」
車が来たと、フロント・マンが伝えた。立ち上がるりく也の左手は、またユアンに取られた。その指に彼が口づける。彼の予想しなかった行動に、りく也の引く手が遅れた。
「今日はありがとう。たとえ嫌々でも、君に祝ってもらえて嬉しかった」
ここで怒ってはユアンを喜ばせるだけだとわかっている。が、捕まれた左手を取り戻した次の瞬間には、右腕が勝手に彼の頭を掴んでソファに引き倒していた。殴らなかったのは、いつものように加減する自信がなかったからだ。周りの客がギョッとした顔で、それぞれ腰を浮かせた。車が来たと知らせたフロントマンが、「お客様!」と叫ぶ。ユアンは自由になる手で、周りの反応を制した。
頭を押さえつけられたまま、
「愛しているよ」
と彼は微笑んだ。
「一生言ってろ」
りく也はユアンの頭から手を外して、車が待つホテルの玄関に足を向ける。目の痛みはこめかみの辺りに移動していた。こんな馬鹿馬鹿しいメロドラマ男を相手に、これ以上時間を無駄にはしたくなかった。さっさとマクレインに行って、寝心地は今一つの仮眠ベットで寝すむに限る。その方がよほど建設的だ。
『私だけのリクヤ・ナカハラ』とユアンに言わしめた、不機嫌な表情を周りに振りまきながら、りく也はロビーを後にした。