愛シテル
出会い編1 〜April りく也31才 ユアン32才〜
「今年の医学生、どう思う?」
「ここ三年の内じゃ最低だわ。リックだけよ、今の段階で使えるのって。もう一週間も経ってんのに、まだ銃創患者見て吐いてるヤツがいるしね」
「そうそう、寝不足で脳貧血起こしたのもいたよ。たかだか二十七時間勤務で」
「リック、いいよね。覚えは早いし、度胸はあるし、とってもファンキーだしね。みんな狙ってるわよ」
「でも、彼、セックスは最低だって」
「えーっ?! 何それ?! 誰が言ってるの?!」
「ミラが言ってた」
「なぁんだ。リックもあの巨乳に悩殺された口かぁ」
「もう自慢して大変だったんだから、デートの日はね。でも次の日の顔ったら」
「顔ったら?」
「『私はトイレじゃないわよ!』って、言う言う」
「そんなに激しいの?! つまり性欲の捌け口ってこと?!」
「キャー」
「って、ナース達が囀(さえず)ってたけど、どうなんだ?」
患者を乗せた救急車が来るのを搬送口で待つ間、レジデントのケイシー・ライトが興味深げに聞いた。
「どうかなぁ、結局セックスは相性だから。彼女と合わなかったから最低なんでしょ?」
りく也は肩を竦めてカラカラと笑った。
「じゃあ、本当にミラと寝たのか? あいつは尻軽で有名だぞ。ま、確かに胸は魅力的だがな」
「遊びだって割り切れて、いいと思ったんですよ。溜まってたしね。でも彼女とは次はいいや。ボリュームあり過ぎて、潰されそうだったし」
りく也の答えに、ケイシーの黒人特有の厚い唇が半開きになったかと思うと、次には喉の奥まで見えるくらい開いて、笑いが吹きだした。
サイレンの音が近づいてくる。無駄口はそこで終わった。救急車が滑り込んできた。
ここマクレインは大学付属の総合病院である。中原りく也は医学部の三年生で、一週間前からここの救急処置病棟(E.R.)で実習していた。医学部の学生は三年生になると、病院での臨床実習を始める。二年間で内科・小児科・外科・産婦人科・精神科などといった病棟をローテーションし、実践的な医療行為を学ぶのだった。
「患者は六十七才男性。芝刈りの最中に倒れ、意識不明です。心臓に既往歴有り」
救急車から患者がストレッチャーに移される。救命士が現状を報告するのを聞きながら、患者を運び込む。もう一台、別の車が入ってきた。今日は朝から比較的暇だったのに、午後を過ぎると次々とコールされた。あと一時間弱でりく也は上がりだったが、また時間どおりには終われそうにない。E.R.では「予定通り」と言う言葉は、ほとんど死語で、それ故、医学生には人気がなかった。患者は重なる時には重なる。そんな時はまともに食事も休憩も取れない。生死をさ迷う患者も多く、的確な治療を効率よくこなさないとリスクが増えるので、プレッシャーもかかる。卒業後、選択する学生の数は、他の科に比べて格段に低かった。
「こりゃ挿管しないと、リック、こっちに来い」
後から運ばれてきた患者を受け持ったチーフ・レジデントのカイン・バートリーが、ケイシーと一緒に治療室に入ろうとしたりく也を呼んだ。ケイシーが「行け」と顎で合図し、別の医学生の名を叫んだので、りく也は呼ばれた治療室に向った。
こうして慌ただしく一日は過ぎていくのだ。リクヤ・ナカハラ、ロバート・ケニングス、カーラ・シンプソン、ジェフリー・ジョーンズの四人の医学生は、散々こき使われたあげく、治療の合間に繰り出される指導医からの質問に、答えていかなくてはならず、気がつくと帰宅していた…ということもままあった。
「この現状に慣れる日が、来るんだろうか」
ドクター・ラウンジに戻ったりく也を迎えたのはロバートだった。魂も何も抜け落ちたようにぐったりとソファに凭れ掛り、天井を見るとはなしに見ていた。
「慣れて来ただろ? 心臓発作くらいじゃ、驚かなくなったぜ、俺」
りく也は自分のロッカーを開けた。首にかけた聴診器を外す。やっとオフだ。ただし、予定時刻は五時間もオーバーしていたし、あと六時間で次の勤務が始まるから、帰っている時間はなかった。
「僕はまだダメだ。今日だってもう二回も吐いたよ。君は挿管してただろ?」
「死んだけどな」
さらりと答えたりく也に一瞥くれて、ロバートはそのままソファに横になった。「まだ吐いてるヤツがいる」とナースが言っていたのは、どうやら彼のことらしい。
「あれ、もうオフだろう? 帰らないのか?」
「帰ってる時間がもったいないから、仮眠室で寝る。ロブは何時上がりだ?」
「君と入れ替わり」
「じゃあ帰る時、起こしてくれよ」
りく也はポケットベルだけ持って、隣の仮眠室に入った。
ヘッドボードのクリップライトを消す。部屋は真っ暗になったが、なかなか眠気が来ない。忙しい一日に高揚して、疲れているはずなのに、逆に冴えてしまっているのだ。少しでも眠って疲れを取っておかないと、仕事に差し支える。ミスは患者の生死に関わるからだ。だから、無理やりにでも目を閉じる。
りく也が人生をやり直すつもりで渡米したのは三年前、二十七才の秋だった。以前、留学していた際にMCAT(脚注1)を受け、メディカル・スクールに入学したが、日本に呼び戻されて休学していた。
彼はある財閥の後継ぎで、本来なら望む道を歩むことは出来なかった。しかし二十七才の夏の終わりに、りく也を縛っていた柵みがなくなり渡米、復学した。うとうととし始めると、感覚が麻痺してどちらが現実かわからなくなる。マクレインで研修している方が夢ではないかと思えて、眠気を拒んで入るのかも知れない。冗談で周りを笑わせ、フットワークの軽さでスタッフ・ドクターに重宝がられているリクヤ・ナカハラが、実は今が夢ではないかと思うあまりに不眠症気味になっているなど、きっと誰も想像しないだろう。
「リック、リック」
それでもようやく眠りに落ちようとした時、自分を呼ぶ声に揺り起こされた。
「…今、寝たとこだぞ」
「帰る時、起こせって言ったろう? 僕は上がるからね、起きろよ」
開けたドアからロバートが言った。彼のオフの時間が、りく也の出勤時間だった。いつの間にか、六時間経っていたらしい。
「わかった…、お疲れぇ…」
少し身を起こしかけて、答える。「Bye」とロバートがドアから消えると、りく也はベッドに引き戻された。
「リック、起きてください。患者が来るわよ」
別の声がドアを開けて入ってくる。点けたライトをりく也の顔に向けて、看護師長のマーガレット・フォレストが容赦なく起こす。
「ほら、起きた起きた。ハイウェイで玉突き事故。三人、搬送されてくるから」
「わかったよ、マージ、起きるったら」
今度はちゃんと起き上がった。また一日が始まるのだ。頭を振って覚醒を試みた。しかし一度睡眠モードに入った脳は、簡単に起きてくれない。再びベッドを目指す彼の背中を、長年の看護師生活で鍛えられたマージの掌が、バンバンと叩いた。
「痛ってぇ…」
「二度寝するなんて、十年早い!」
そう言って、彼女は足音も高く仮眠室を出て行った。看護師にかかると、医学生などようやく卵から孵ったひよこである。