暦 ―こよみ―
文月(二)とんとん拍子
「お母さん、今夜も遅くなるから食事はいらないわ」
「あら、お姉さん、また今夜もデート?」
「ええ、そうよ」
「お姉さん、あれからすっかり変わったわね」
「あら、そう?」
「恋する乙女全開って感じ」
「なんと言われてもかまわないわ。私幸せですもの」
「あらら、ごちそうさま」
早紀子の言う通りだと由紀子は思った。
病室で人目もはばからず直樹にすがりついたあの時から、由紀子は今まで知らなかった世界に足を踏み入れた気がする。この人を失ったらとても生きてはいけない、そんな生まれて初めての感情を抱いた。
それからというもの、由紀子は直樹からの連絡を心待ちにするようになった。そして離れていても、直樹のことがいつも心のどこかにある。人を恋する気持ち、由紀子はこの歳になって初めて経験するものだった。
仕事を終え、待ち合わせ場所で直樹を待つ。そんな時間でさえ、由紀子には幸せなひと時だった。そして、人混みの中から直樹の姿を見つけた瞬間から、由紀子にとって夢のような時間が始まる。直樹の隣を歩き、直樹の声を聞き、見上げるとそこにはやさしく自分を見つめる笑顔があった。
直樹ももちろん、そんな由紀子の変わり様がうれしくもあり、愛しくもあった。出会って半年、ようやく由紀子も自分と同じ気持ちになってくれたのだ。どんなにこんな日が来るのを待ち望んだことか。そして今日こそ、プロポーズをしようと心に決めていた。
ふたりはいつもの店に入った。
まだ、右腕を自由に使えない直樹のために、肉を食べやすいように一口大に切り分けるなど、由紀子はかいがいしく世話を焼いた。直樹は器用に左手を使い、美味しそうにその肉を口に運んだ。
食事も終わり、由紀子がデザートのフルーツに手をかけた時、直樹が言った。
「おいしそうなメロンですね」
「直樹さんも召し上がります?」
「はい」
由紀子は一口大のメロンを直樹の口に運んだ。
「甘いですか?」
「ええ、とても」
傍で見ている人がいたら、耐えられないような甘い言葉としぐさの応酬である。
「ケガが治っても、今みたいに食べさせてくれますか?」
「直樹さんたら……もちろんですよ」
「歳をとってもずっとですよ?」
「はい、え! それって……」
「由紀子さん、僕と結婚してください」
直樹を愛しているとまだ思えない頃、由紀子はこの状況を怖れていた。でも、今なら返答に困ることはない。ただ意外なことに、この言葉を待っていたという気持ちもなかった。
最初から結婚前提に付き合ってきた。互いの家族もそれを認め合っていた。そして、ふたりの気持ちが固く結ばれた今、このままの流れで日にちが決まり、式場が決まり、そんな感じで進んで行っても自然に思えたからだ。
「今度の日曜、ご両親に正式に由紀子さんをいただきに伺いたいと思っています。よろしいでしょうか?」
きちんと筋を通す、そんな直樹に自分はただついて行くだけ、そう思う由紀子にはただひとつの返事しかなかった。
「はい」
日曜の午前中、直樹は美沙子を連れて真中家を訪れた。梅雨のさなかということもあって、しばらくしとしと雨の日が続いていたが、この日はなんとか曇り空ですんでいた。
「まあまあ、お待ちしていました。どうぞお上がり下さい」
玄関で、母の保子と由紀子が二人を出迎えた。
スーツ姿の直樹親子は和室に通され、そこで待っていた和孝が、二人を出迎えるべく立ち上がった。
「お父さん、お久しぶりです。今日はお忙しいところ、お時間を取っていただきましてありがとうございます」
「久しぶりだね、直樹君。今日はどうにか天気がもってくれてよかったよ」
「さあさ、こちらへどうぞ。座布団を当ててください」
保子に促され、二人は座卓の前に座った。そして、直樹は母を紹介した。
「母です」
「直樹の母の水沢美沙子です。本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
美沙子と和孝夫婦は、初対面の挨拶を交わした。それから、
「お口に合うかわかりませんが……」
そう言って美沙子が手土産を差出すと、そこへ、早紀子がお茶を持って入ってきた。
「由紀子の妹の早紀子です」
和孝が紹介すると、早紀子はお茶をみんなに配り、
「早紀子です」
美沙子に頭を下げて微笑んだ。そして、部屋の隅に座布団を敷いて座った。
「何してるんだ、あっちへ行ってなさい」
そう言う和孝に、早紀子はねだるように食い下がった。
「おとなしくしているから、ここに居てもいいでしょう?」
「だめだ」
「お姉さん……」
すがるような早紀子のまなざしを受けて、由紀子は直樹を見た。すると、直樹は緊張した表情を一瞬崩して、早紀子に笑顔を送った。
「お父さん、早紀ちゃんは僕たちにとって大事な人です、いっしょに見守ってもらいたいのですが」
「直樹君は本当にやさしいなあ。早紀子、居てもいいぞ」
「はい」
早紀子は、直樹を見てニコッと笑った。
「お父さん、先日の入院の際はご心配をおかけした上に、お見舞いまでいただきまして申し訳ありませんでした」
「いや、驚いたけど、そのくらいですんで本当によかった。まだ痛むかい?」
右腕の包帯を見て、和孝が思いやった。
「いえ、おかげさまで順調に回復していまして、来週にはこの包帯も取れることになっています」
それからしばらく世間話が続き、美沙子と直樹の暮らしぶりなどが語られた。そして、頃合いを見て、直樹が居ずまいを正した。
「お父さん、お母さん、由紀子さんとの結婚を許していただきたいのですが」
直樹とともに、美沙子も頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。ふつつかな娘をと言うところですが、由紀子は私どもの自慢の娘です。どうぞ、久しく可愛がってやってください」
「ありがとうございます。生涯大切にさせていただきます」
直樹はそう言うと、カバンから、勤め先のデパートの包装紙に包まれた小さな包みを取り出した。そして、それを真中家側に差出した。
「婚約の証に、これをお納めください」
由紀子は、父の顔を見た。
「頂戴して、開けてごらん」
「ありがとうございます」
そう言って、由紀子はその包みを開けた。ケースの中には、由紀子に似合う控えめで気品を漂わせた指輪が輝いていた。
「由紀子さん、それを」
由紀子がそのケースを渡すと、直樹は中から指輪を取り出し、由紀子に手を出すように目で合図をした。そして、控えめに差し出されたその指に、直樹は指輪をはめた。由紀子の指にそれはぴたりとはまった。
「由紀子、おめでとう」
「由紀ちゃん、よかったわね」
「お姉さん、素敵よ」
家族から次々に祝いの言葉をかけられ、由紀子は頬を染めた。
「本来でしたら、しかるべき席を設けてお渡しするところですが、こちらのお宅で、由紀子さんのご家族や私の母の立ち合いがあれば、それが一番かと思いました」
「形式なんてどうでもいいさ。な、母さん」
「そうよそうよ、気持ちがこもって素敵だったわ」
「早紀子、お前に言ってない!」
一気に場の空気が和み、笑い声が巻き起こった。
そして、直樹親子が真中家を後にする時、見送りに出た早紀子に、美沙子がそっと囁いた。
「早紀子ちゃん、ありがとう」