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透と千明のメリー・クリスマス

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「ちょっとあんた、またパチスロやってきたのね!」
 空っぽの給料袋を手にして、千明がわなわなと唇を震わせる。
「どうするの、明日から一体どうやって暮らしていくつもりなのよ!」
 背中では、赤ん坊がやかましく泣きつづける。
 おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ
 彼女はその美しい顔に怒気をはらませ、透の目をきっと睨みつけた。
「さっき大家さんが来たわ、たまってる家賃さっさと払えですって!」
 それを聞いた透は、無精ひげの浮いたあごを撫でながら悪態をついた。
「へん、だからどうした。大家が怖くてゴーヤチャンプルが食えるかってんだ」
 千明が涙声で言う。
「もう半年ちかくも家賃払ってないんじゃ怒るのも当然だわ。電気代だって水道代だって督促状が山のように来てるのよ。この子のミルク代だって……もう限界よ、私の内職したお金なんかじゃ焼け石に水だわ」
 彼女は、着古して糸のほつれたセーターの袖で涙をぬぐった。ちなみに千明は、タレントの栗山千明そっくりである。透は苦虫を噛みつぶしたような顔で、その場にどっかとあぐらをかいた。
「パチスロやってなにが悪いんだ。勝てば一攫千金だぞ。そうすりゃこのボロアパートともおさらばだ。お前ェにだって好きなだけ贅沢させてやれるんだぞ」
 そのボロアパートの窓ガラスをバリバリ鳴らして、夜間飛行のジェット旅客機が飛んでゆく。
 ゴオオオオオオオオ――ッ
 千明は、泣きはらした顔でイヤイヤをした。
「……なに夢みたいなこと言ってるの。ただでさえ少ないお給料をぜんぶパチスロにつぎ込んでしまって。私たちにはもう余分な蓄えなんて残されていないのよ、分かってる?」
「ガタガタ言うないっ、男にはな、引くに引けねえときがあるんだ!」
 そのとき、部屋のすみにある固定電話が鳴った。ピロロロロ、ピロロロロ……。二人は、息を飲んで互いの顔を見合わせる。やがて留守番電話に切り替わると、スピーカーから粗暴な感じのする男の声が聞こえてきた。
(やいこら、まつばらっ! 居るのは分かってんだぞ! さっさと金返せっ! 期日はもうとっくに過ぎてるじゃねえか!)
 闇金業者からの取り立てだった。透は青ざめた顔で目をウロウロさせた。千明が両手で顔を覆い、うわーっと泣きくずれる。
「もうイヤよ、こんな生活うんざりだわっ。あんたなんかと結婚するんじゃなかった」
「ななな、なんだとう、このアマっ!」
 透は、逆上して勢いよくちゃぶ台をひっくり返した。食器の割れる音がして、三畳一間の床一面に夕食の残骸がぶちまけられる。
「なんてことするのっ!」
「お前ェが、くだらねえこと抜かしやがるからだ」
 千明の背中で赤ん坊が泣く。
 おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ
 そのとき不意に玄関ドアが叩かれた。
 ドンドンドンッ
「ちょっと松原さん、早く家賃払ってちょうだい。もう半年も滞ってるんだから。もし払えないって言うなら、こっちにも考えがあるわよ」
「くそう、あの因業ババァめ」
 付けっぱなしのテレビからは、臨時国会のようすが流れている。
『――ええ、私は総理の職を辞するつもりはございません。残された職責を全うすることこそが総理として果たさねばならぬ使命であると考えている所存でございます』
 千明がスッと立ち上がった。涙はいつの間にか渇き、寒気がするほど冷ややかな視線で透を見おろしている。
「私、決めたわ……」
「あん? なにを決めたんだ」
「あんたと別れる」
「な、なに言ってやがる。そんなことは許さねえぞっ」
「フン、このあいだ福祉事務所の北郷さんに言われたのよ。もしこのままご主人がギャンブルに生活費をつぎ込むようなら、そのときは迷わず離婚しなさいって。法的な手続きはすべて福祉事務所のほうでやりますからって」
 透は、立ち上がって千明の腕をつかんだ。
「お前ェ、さてはあの男とデキてやがんな!」
 赤ん坊が泣く。おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ
「俺のいないあいだにあの若造を家に引っぱり込んで、乳繰り合ってやがったな。ええ、そうだろう? この尻軽女め!」
「そんわけないでしょっ!」
「いやそうに違ェねえ。このガキだって本当に俺の子どもだか怪しいもんだ」
 ふたたび留守番電話から、闇金業者の怒声が流れはじめる。
(やい、まつばらっ、俺たちをなめんなよ。明日じゅうに利子だけでも振り込まねえと、とんでもないことになるぞ。おいこら聞いてんのか、なんとか言えっ!)
 テレビからは相変わらずの国会答弁。
『――総理、総理、他人事のように仰られては困りますな。総理には任命責任というものがあるでしょう。ここは潔く内閣総辞職するのが国民に対する正しい責任の取りかたではないんですか?』
 千明は、透の足下にばんっと離婚届を叩きつけた。
「さあ、今すぐこれに判を押してちょうだい」
「ばかやろう! こんなもんにハンコつけるか」
「あんたとは離婚するって決めたのよっ!」
 おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ
 ドアが乱暴に叩かれる。ドンドンドンッ
「ちょっと聞いてるの、家賃だよ、家賃! 今すぐ耳そろえて払ってちょうだい!」
 ふたたび上空を、夜間飛行のジェット機がかすめ飛んでゆく。
 ゴオオオオオオオオ――ッ
 透は、離婚届の用紙をビリビリと破いた。
「そんなことより、ちょっと実家に電話して借金を申し込め。理由はそうだなあ……ガキが急病で医者代に困ってるからとそう言え」
 千明の細い肩がブルブルと震えた。
「この……ろくでなしが……」
 彼女は、ダーッと台所まで走ると、刺身包丁を握りしめ戻ってきた。
「殺してやるっ、あんたなんか殺してやるわ!」
 おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ
「おいバカよせっ、危ねえじゃねえか」
 ドンドンドンッ
「ちょっと松原さん、居るんなら返事くらいしなさいよ。給料日なんだろ?」
 ジェット機の飛ぶ音。
 ゴオオオオオオオオ――ッ
『――ええ、以上をもちまして問責決議案は否決されました。パチパチパチ』
 千明は包丁を手に、透に躍りかかった。
「死いいいいいねええええええっ!」
「ひいっ、人殺しィーっ」
(こらっ、まつばらっ、金がねえんなら腎臓売れっ! 目ん玉売れっ! おめーの美人のかーちゃん売れっ!)
 おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ
 ドンドンドン
「家賃だよ、家賃、家賃っ!」
 ゴオオオオオオオオ――ッ

 夕方からチラつき始めた雪はやがて街全体を覆い、見渡すかぎり白一色の雪景色となった。
 曇り空に、教会の鐘が鳴り響く。
 シャラーン、シャラーン、シャラーン
 恋人たちが、思い思いの場所で抱き合ってキスをする。
 年に一度の聖なる夜に……メリー・クリスマス。