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【短編集】人魚の島

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魔道師の掟


 疾風怒濤の勢いで〈賢者の同盟〉の領土の奥深くまで侵攻した〈新しき聖者の帝国〉の軍勢は、しょぼくれた樹木がちらほらと散在するだけの不毛な平原で敵の大軍と対峙した。数の上では同盟軍の方が圧倒的に有利だった。地の利も敵にある。正面から衝突すればいくら精鋭を集めた帝国軍でも苦戦を強いられるのは必至だ。しかし、〈新しき聖者の帝国〉を支配する、神聖不可侵の皇帝である〈大地を砕く者〉はなにも心配していなかった。
 戦場に設営された本陣のなかで〈大地を砕く者〉がその名を呼ばわると、居並ぶ将軍の列のあいだから黒衣に身を包んだひとりの魔道師が主君の眼前に進み出て、鞠躬如(きっきゅうじょ)としてこうべを垂れた。
「おまえの出番だ」
 ぞんざいな口調で〈大地を砕く者〉が告げる。
「この戦いに勝つことができたら、おまえには封土貴族の称号をくれてやろう」
 声を失い、しゃべることのできないその魔道師は、感謝の言葉の代わりにその場で両膝を折り、額を地面にこすりつけた。
「行け」
 〈大地を砕く者〉は顎をしゃくる。
 魔道師は鷹揚(おうよう)にうなずくと、自分の任務を果たすために皇帝の御前を辞した。臨時の玉座のそばに立つ大将軍の批判的な眼差しに気づいた〈大地を砕く者〉が目顔で発言を促すと、先代の皇帝にも仕えた百戦錬磨の偉丈夫(いじょうふ)は、控え目だがはっきりとした語調で忠告した。
「おそれながら申し上げます。あの者を信用してもいいものでしょうか」
「卿(けい)はなにを心配している?」
「強力な魔道師とはいえ、所詮どこの馬の骨ともわからぬ下賤の輩です。数年前まではうだつがあがらない無名の魔道師であったのに、悪魔と取引をして、自分の声と引き換えに絶大な魔力を手に入れたとの不穏な噂も聞き及びます。貴族の称号を手に入れると増長して陛下に対し不忠を企てるやもしれませぬ」
「おのれが王となるために魔法を使うのは禁じられている。それが魔道師の掟のひとつだ」
「承知しております。しかし、掟を破ったからといって実害はありますまい」
「案ずるな。ちゃんと打つ手は考えてある」
 しばらくして……。
 数万人の兵士で構成された隊列が距離を隔ててにらみ合う平原の上空で、突然、雲もないのに雷光が閃いた。巨人が投げつけた槍のように太いジグザグの稲妻がいくつも同盟軍の隊列の真ん中に突き刺さり、木端(こっぱ)と泥と人間の断片を巻きあげる。
 すぐさま、同盟軍につき従う魔道師たちが魔法で反撃する。轟音とともに帝国軍のすぐ頭上で巨大な炎の柱が逆巻き、皇帝の勇猛な将兵を地獄の業火で焼きつくそうとした。
 炎の玉がまさに帝国軍を呑みこもうとした瞬間、目に見えない魔法の壁がそれを弾き返し、上空から強い風が吹いて火を瞬く間に吹き消す。それと同時に無数の稲妻が宙を切り裂き、無防備な同盟軍をしたたかに打ち据えた。
 密集陣形を維持していた同盟軍が浮き足立つ。足並みが乱れ、交錯する怒号と悲鳴が命令を伝える伝令の声をかき消す。稲妻が本陣を直撃して将軍と魔道師の一団が熟した果実みたいに破裂すると、敵は総崩れとなった。野獣に追われる家畜の群れのように秩序もなくバラバラな方向へ遁走(とんそう)する。
 同盟軍の混乱が頂点に達したとき、〈大地を砕く者〉は待機する将軍に命じて敵軍に総攻撃をかけさせた。鯨波(げいは)をあげて帝国軍が突貫する。帝国軍を迎え撃って戦おうとする敵はいない。それは戦闘と呼べるようなものではなく、一方的でしかもこの上なく効率的な虐殺だった。
 数時間が経過すると、かつて同盟軍が陣を占めていた低い丘にはおびただしい数のねじくれた死体だけが残された。
 敗走する敵を〈大地を砕く者〉は追撃させなかった。いや、正確に表現するならば同盟軍は壊滅状態であり、わざわざ追撃するまでもなかったのである。
 戦死者が死屍累々(ししるいるい)と横たわる戦場をじっくりと検分する〈大地を砕く者〉のもとに小躍りしたくなるような吉報がもたらされた。〈賢者の同盟〉の主都にいると思われていた盟主の無残に引き裂かれた死体が発見されたのだ。侵略者を自ら撃退してやろうと、のこのこ戦場まで出向いてきたらしい。盟主という求心力を失った〈賢者の同盟〉の征服はもはや時間の問題だと思われた。
 〈大地を砕く者〉は将兵の労をねぎらい、戦勝を祝して全軍に酒を振る舞った。
 日が沈み空から太陽の残光が消え失せるころ、皇帝の勝利宣言とともに酒宴は始まり、将軍たちは自分の手柄を声高に吹聴し、兵士たちは下世話な話題に花を咲かせた。功績のあった者はひとりひとり〈大地を砕く者〉に名前を呼ばれ、その場で恩賞を授かった。それぞれの戦功に応じた爵位と称号を与え、占領した土地を領地として下賜する。
 最大の功労者である魔道師には誰もが過分の恩賞と思えるほどの爵位と広大な領地が与えられた。魔道師は滂沱(ぼうだ)と流れる涙で頬を濡らし、短剣の切っ先を胸に押しあてる帝国の伝統的な儀式で皇帝に一層の忠義をつくすことを誓約した。〈大地を砕く者〉は微笑みながら自分の剣の腹で魔道師の肩に触れ、その誓約を受け入れる。感極まった魔道師は地面に突っ伏し、いつまでも顔を上げようとしなかった。
 夜を徹しての盛大な酒宴も明け方近くに自然と果て、〈大地を砕く者〉は天幕のなかの寝所へ引き取った。用意された寝台にしばらく腰かけて酔いをさました〈大地を砕く者〉は数人の側近を呼びつけ、感情のこもらない声色で命令した。
「魔道師を殺せ」
 ハッと息を呑む側近に〈大地を砕く者〉はニヤリと笑ってみせた。
「世界はもうすぐ余のものとなる。ヤツはもう用済みだ。あんな危険な男をいつまでも生かしておくわけにはいかない」
「しかし、これから先もあの者を召し抱えるおつもりで貴族の称号をお与えになられたのでは?」
 〈大地を砕く者〉はおかしそうに声を殺して笑った。
「あれだけの恩賞を与えれば、ヤツをねたむあまり殺したいと思う人間がいても不思議ではなかろう?」
「では、最初からそれが目当てで……」
「ヤツを殺したのは余ではない。ヤツの出世を喜ばない小心者だ。わかったな?」
 皇帝の冷徹な言葉に側近は黙って首を縦に振り、主君の命令を実行に移すべく、天幕からそそくさと立ち去った。
 側近がいなくなったあとも〈大地を砕く者〉はひとりで思案にふけっていたが、やがて睡魔がこっそりと忍び寄り、寝台に身を横たえた彼はすぐに寝入った。戦いに勝った高揚感の残滓が楽しい夢を運んでくる。夢のなかの〈大地を砕く者〉は神にも等しい存在として全世界に君臨していた。彼が望めばどんなことでもかなう。彼に不可能なことはなにひとつない。人間や動物、草木はもちろん、砂のひと粒にいたるまで、形のあるものはことごとく彼の所有物であり、世界は彼に征服されるのを待っていた。
 夜明け前、〈大地を砕く者〉は自分の名前をささやく声で目覚めた。寝台のすぐ横にまるで枯れ木のように痩せさらばえた黒衣の老人がたたずんでいる。
 〈大地を砕く者〉は一挙動で寝台に上半身を起こす。枕元に置いてあった短剣に手を伸ばそうとして全身の筋肉が硬直する。身体の自由がきかない。首から上だけがかろうじて動く。
作品名:【短編集】人魚の島 作家名:那由他