『予約席』(掌編集~今月のイラスト~)
私は心の中で舌打ちした。
馴染みの喫茶店のドアを開けると、お客さんが一人しかいないにもかかわらず『いつもの』席が塞がっていたのだ。
マスターも私の顔を見て、ちょっと決まり悪そうにしている。
なぜならそこは私の特等席……予約席とも言って良いくらいなのだ。
マスターと知り合ったのは犬の散歩で。
同じアメリカン・コッカースパニエルを連れていた男性と毎朝のように顔を合わせるうちに親しく会話を交わすようになり、男性が喫茶店のマスターであることを知った。
そして、その喫茶店を訪れてみると天然木をふんだんに使った落ち着いた雰囲気、マスターが淹れてくれるコーヒーも絶品で、それ以来すっかり常連になった。
そこが私の『予約席』なのは、三年前に亡くした愛犬・トーイの写真を飾ってくれているから。
マスターもその一年後に愛犬・ララを亡くしていて、その写真はちょうど向かいにあたる壁にかけられている。
トーイとララも仲が良かったので、向かい合うように飾られているのだ。
(ごめん、どうしてもあの席が良いと言われてさ)
マスターが小声で言った。
まあ、もちろん予約料を払っているわけでもない、マスターの口ぶりからすれば、一度は別の席を勧めてくれたようだし、それ以上私が口を出せることでもない。
私は仕方なく向い側の、ララの写真がかかっている席に座った。
注文をするまでもなく、私の前に『いつもの』が運ばれると、私の予約席を占拠した女性がこちらを見た、いや『見た』と言う程度ではない、『ガン見』だ、こちらの視線に気づいても目を逸らすことなく見つめ続けている。
どうもこの状況はあまり居心地の良いものではない、相手がむくつけき大男ならそそくさとコーヒーを飲み干して席を立つところだ。
だが彼女はかなりの美人だ、なんとなく落ち着かないものの悪い気はしない、まじまじと見るのはさすがにはばかられるが、向こうが視線を逸らさない以上、ちらちら見るくらいは構わないだろう。
ちょっと捉えどころのない女性だ、化粧っ気のない顔はミドルティーンのようにも見えるが、その年頃にはない落ち着きを感じる、テーブルに置かれているのもブラックコーヒー、ミドルティーンだとすれば少し背伸びした飲み物だ。
そして指輪、ペンダント、ピアスなどのアクセサリーをつけていない、髪にピンさえもつけていないのだ、あまりごてごてと飾り立てる女性は好まないが、一切つけていないというのはちょっと奇異な感じもする、そう考えると彼女が着ている生成りのセーターがシンプル過ぎるのも気になって来る、織り柄さえも入っていないのだ。
どこがと言うほどではないにせよどこか普通ではない感じがする……そんなことを考えていると、ようやく彼女が口を開いた。
「あの……」
「え? 私?」
「ええ……このワンちゃんの飼い主でいらっしゃいますか?」
「え、ええ……もっとも、そのコは三年前に亡くなりましたから『元飼い主』ですけどね」
「存じてます」
……どういうことだ? 私は懸命に記憶を探ったがその女性に見覚えはない、毎日犬の散歩をしていると名前も知らない知り合いも増えるものだが、そういった知り合いでも最低限会釈ぐらいはする、三年前までだと言っても記憶から綺麗さっぱり消えているはずはない、ましてこの美人ならなおさらだ……。
「あ、あたしが存じているのはトーイ君の方、あなたとは初対面ですわ」
そう言って彼女は壁に掛けられている写真を指差した。
トーイは知っている、だが私は知らないと言う……どういうことだ? いや、よくよく考えてみれば有り得ないことではない。
「ああ、母や姉が連れている時に会われたんですね? 私が都合つかない時は頼んでいましたから」
「それも違います」
「……ならばどうしてトーイをご存知なのですか?」
彼女はその問いには答えずに、全く予期していなかった一言を口にした。
「トーイ君からの伝言です、先月あなたが風邪をこじらせて入院されたと知って、彼は随分と心配したんですよ、どうぞお体を大切に……彼は早過ぎる再会を望んではいません、いつまででも待っているからと……」
「え?……」
トーイからの伝言だって?……有り得ない、だが、彼女は私を知らないと言い、私も彼女に見覚えがない、なのに風邪をこじらせて入院したことは知っている……何故だ? まさか本当にトーイからの……。
「待っているって……どこで?」
彼女はその問いには答えずに席を立つとドアを空け、振り向きもせずに言った。
「虹の橋のたもとで」
私もマスターも呆然としてしまい、時間が止まったような店内にカウベルの音だけが響き渡った。
先に正気に戻ったのはマスターだった、女性を追おうとドアに向かったのだが……。
「マスター!」
「何?」
「いいんだ、追わないでも……追わないでくれる?」
「だけど……」
「私は信じるよ、彼女は虹の橋のたもとからトーイの伝言を持って来てくれたんだって」
「……それもそうだね……」
マスターは手近な椅子にどっかりと座り込んだ。
「僕も信じることにするよ、もしかしたらいつかララの伝言を持って来てくれるかも知れないしね……」
あれから一年、あの不思議な女性は現れていない。
まあ、マスターにも私にも特に変わったことがなかったから当然なのかも知れないが……。
だが今日、客が私一人だったので、マスターからあることを打ち明けられた。
以前この店でアルバイトをしていた女性と最近再会して、交際に発展しているのだそうだ。
彼女は当時学生だったが、就職して仕事に、恋にと悩んでいた時、ふとマスターを思い出して店にやってきたらしい。
その当時彼女は二十歳、マスターは三十一歳だったが、再会した時は二十七歳と三十八歳、 その七年間で人間的に成長していた彼女にとって、マスターは十分に恋愛の対象になっていたんだ。
それはわかる気がする、マスターはイケメンじゃないしちょっと小太りだけれど、話していると人を和ませる懐の深さと人当たりの良さがあるからね。
で、ついこの間彼女のほうから結婚をほのめかされ、マスターも彼女が好きなんだけど、歳の差がちょっと気になっているらしい。
マスターは自分のことを『こんなオジン』と言うけど、彼女の目は確かだと思う、私は良い話なんじゃないかと思うんだけど……。
そんな話をしていると、カウベルが心地良い音を立てた。
「いらっしゃ……あ……」
マスターが固まった……入ってきたのはシンプル過ぎる生成りのセーターの女性。
そして彼女はマスターと私に軽く会釈すると、迷わずララの写真が掛けられている席に腰掛けた。
(終)
作品名:『予約席』(掌編集~今月のイラスト~) 作家名:ST