São Pauloの秋刀魚
豊洲に移転した魚市場の噂でかまびすしい。
40年ほど前、魚好きが高じて真剣に築地市場で働きたくて面接に臨んだことがある。
仲卸ではなく七社ある大卸の内の一社。
当時湯島天神下にあった寿司の名店「魚て津」の解説本(魚さかな肴 マリン企画)などを一夜漬けし、履歴書片手に嘻嘻として出掛けたが、見事に落とされた。
落とされたと言うより、大卸の社長に諭された。
「お前さんにようなお人が働くところじゃありません。お国のために働きなさい」
社会のなんたるかを知らない初心(うぶ)だったあたくしは、真っ正直に履歴書を書いていた。学歴や資格、特技など出来るかぎり丁寧に書いたのだが、それが裏目に出たらしい。後にも先にも採用面接で落とされたのはこの一度きりである。
行く道の浮かれ具合とは裏腹に肩を落とした帰り道、濡れた通路がまぶしかった。
以来魚嫌いになって……なんてことはなく、相変わらず意地汚く魚を食べているし、もう何年も釣りはしていないが、落ち着いたらまたぞろ始めようかとも思っている。
海外出張のおり、現地の日本人から食事に誘われることも多かった。何の事はない社内接待なのだが、現地の日本人にとってみればこれ幸いと懐を気にせずに日本食を食べたいのだろう。判で押したように魚介中心の日本食になる。
現地の日本人は当時もてはやされ始めた「ノドグロ」などを頼んでいたが、築地では「アカムツ」と呼ばれ、それ程には珍重されていなかった。私が頼むものはほとんどの日本料理屋にある「秋刀魚の塩焼き」。実は大根おろし好きなのである(^^)
大根おろしといえばとんだ修羅場を経験したことがあった。
20代前半、営業所の所長は会社帰りに営業所の近所で酒を飲み、そのまま近くのサウナに泊まってしまうことが多かった。自宅に帰るのは週に一度くらいだった。子どもが生まれたばかりの奥様はついに堪忍袋の緒を切ってしまった。親族会議の開催。
所長はうら若き青年の私にひと言
「鷹司(もちろん偽名)ちゃん、一人じゃヤだから一緒に親族会議に出てくれない? 別にしゃべらなくても良いから、いてくれるだけで良いから、ね、ね」
無理やりに連れて行かれた。
所長のご自宅での親族会議、私は隣室で生まれたばかりの赤ん坊をあやしながら聞き耳を立てていると……。
所長の妹さん「お兄ちゃん! なんで家に帰ってこないの? 義姉(おねえ)さんも困ってるじゃないの!」
所長「ゴニョゴニョ……」(聞き取れず)
所長の妹さん「なに? 聞こえないわよ! はっきり言って!」
所長「だってこいつ(奥様のこと)、大根おろしを固く絞っちゃうんだもん」
聞き取れた瞬間、私の脳内で時間が止まった。
(こんな理由があるのか? 大人って怖い!)
それからしばらく家族会議は進んだが、結論が出たようだ。
所長の妹さん「義姉さんも大根おろしは絞らないって言うから、お兄ちゃんもちゃんと家に帰ってきてね」
以来、こんな理不尽な話は誰にも言わなかったが、そのときの赤ん坊の結婚式でついに暴露した! 両親ともども涙を流して笑っていた。
閑話休題
ブラジルで食べた秋刀魚の塩焼きが旨かった。もちろん冷凍物なのだが、きちんと刺し網漁のもの。エラの周辺と口の剥がれ具合を見れば一目瞭然。鱗を食(は)んでいない腸(はらわた)も絶品である。頭から尾っぽまで骨一つ残さず食べた。
刺し網と棒受け網の秋刀魚の最大の違いは二つ。
一つは、内臓にウロコが入っているかどうか。棒受け網の秋刀魚には、必ずウロコが入っている。だから、棒受け網の秋刀魚を食べるときには、内臓からウロコを取り除きながら食べなくてはならない。中骨を抜いて丸ごとかぶりつくと、口中からウロコを吐き出さなくてはならない。
もう一つは、血抜きされているかどうか。刺し網の秋刀魚は、刺し網にかかった時点で、エラに網が入り出血死するので血抜きがされている。逆に、棒受け網の秋刀魚は、血抜きされることはない。生きたまま海水氷に入れられる。
塩焼きは刺し網が良い。
ただし刺し網が行われるのはお盆まで。以降は棒受け網漁に変わる。
不誠実なネット販売では、なんとか棒受けの秋刀魚を売ろうとして、刺し網よりも新鮮だ、などと謳っているが、現在の刺し網漁は流し網といって1時間だけ刺し網を流す漁である。新鮮さに違いはない(1時間だけの違い)。
秋刀魚が餌を食べるのは昼間のみ。そして秋刀魚漁は夜行われる。秋刀魚が餌を消化するのにかかる時間は約30分。当然採れた秋刀魚の腸は空っぽ。しかし、棒受け網で掛かった秋刀魚は暴れてほかの秋刀魚の鱗を食んでしまう。これが胆汁を過度に分泌させ刺し網の秋刀魚以上に苦くさせる。
刺し網の秋刀魚でしか塩焼きを拵えない料理店もあるくらい旨く本来の塩焼きなのだ。さぞやお殿様も喜んだことでしょう(落語目黒の秋刀魚より)
ただし見かけは悪い。
見かけは悪くても綺麗な腸の刺し網秋刀魚。別に私になぞらえたわけではない(^^)
ブラジル支社長のご自宅で奥様の手料理を馳走になった。日本の料理、ブラジル料理色とりどり美味しくいただいたのだが、一品だけ魚を酢で〆たものが供された。
「これは?」
聞いたのだが、名前は失念してしまった。ブラジルの川魚。
「こっちの人は何でも唐揚げにしちゃうので、日本風に酢で〆たんですよ」
(おいおい、大丈夫か?)
そんな内心はおくびにも出さずむさぼり食べた。旨かった。
川魚を食ふはいづこの里のならひぞや。(佐藤春夫 秋刀魚の歌のパクリ)
佐藤春夫の秋刀魚の塩焼きはもちろん刺し網漁のもの。棒受けは戦後の漁法である。
作品名:São Pauloの秋刀魚 作家名:立花 詢