隠子の婚約+美人の退職+愛娘の受験+仕事の責任=幸せの1/2
小原がスマホを持って隣のデスクに座った。なんだか嬉しそうに近付いて来たのは珍しい。
「木田さん、この写真見てください。この土日にね、実家に帰ってたんですけど、旦那がコンバインデビューしたんですよ」
博之は、眼鏡をかけて、彼女のスマホの画面を覗き込んだ。
「稲刈りだったの? コンバインの運転、結構楽しいからな」
「旦那は初めて乗ったから、まっすぐ進むように集中して、疲れたって言ってました」
スマホの向きに合わせて首を傾け、それを覗き込む博之。老眼のせいで、じっくり見ないと近くはよく見えないのだ。小原と顔の距離が30センチ以内になるが、それでも小原は逃げない。
「あホントだ。スゴイ緊張した顔してる」
「これも面白いですよ」
次の写真を指先でスクロールしながら話す小原。博之はもう横を向けば、キスしてしまいそうな位置にいる。それに小原はいつもいい匂いがする。こういう瞬間に、わざと体に触れて来る女性がいることも博之は経験済みだが、小原は触れて来なかった。博之は自制しようとして、わざと距離をとった。
(自分の魅力を振りまくことに慣れた女の行動みたいだけど、上司の俺には入り込めないんだろうな)と思った。
「旦那さんは農業することをどう考えてんの?」
「うーん、興味はあるみたいですけど、嫌にならないように徐々に慣らして行く作戦です」
「農業って厳しいしね。家族でやるってことは、給料みたいなものはどうするの?」
「農業法人にしようと思ってますから、ちゃんと給料制にします」
「へえ」
「今、父だけでやってるんですけど、結構売り上げあるんですよ」
「国の補助金とかも大きいだろ?」
「ええ、近所の畑は、高齢化で休耕してるところが多かったんですけど、父が安く借りて、農繁期にはアルバイト雇ったりして、手広くやってるんです」
「それで写真のコンバインも大型なんだな。大規模農業だな」
「名前は小原ですけど、フィールドはでっかいんです」
「お父さんはそういう経営とか得意そうなの?」
「自分で商売することは好きみたいですけど、パソコンとか苦手で、私に期待してるみたいです」
「お前なら、うまくやっていけそうだな」
と言ったのは、小原の管理能力の高さを知っているからだったが、博之はそれを聞いて少し心配にもなった。
最近は野菜など工場栽培をして、売り上げを伸ばす農業企業が話題になっているが、それを真似て博之の従兄弟が、トマトの温室水耕栽培をやって、昨今流行の直売所などで直接販売することで、すごく利益を上げることに成功した。しかしその後、さらに温室を拡大し、倍以上の収穫を見込んだものの、卸し先が増やせずに、ほとんど廃棄処分にしている実情を知って、結局、営業力がものを言うんだと解っていた。
農業に従事する人のほとんどは、JA(農協)のおかげで販路が開けており、そのJAを通さずに直接販売となると、農業でさえ、営業や会社経営の才能がないと難しいのではないかと、心配したのだった。