優しさの在り処
さてこの話をしてどれだけの人が共感してくれたかわからないが、大切な人への贈り物としてはやはり天然の宝石が好ましいと思う。ほとんど見た目が変わらないとなると、どちらでもいい派が多くいそうではあるが、人は天然という言葉が好きだし、広告に人工!と大きく載せるよりは天然!と大きく載せる方が購買率はいいだろう。それが同じ宝石であっても、私たちは天然であることに価値を見出しているのだ。イミテーション(模造宝石)は見た目が似ていても中身が全く違う宝石なのでここでは触れないでおこう。先ほどの優しさの差異を考えるにあたっては見た目も中身も同じで、創られ方が違うだけの合成宝石の方が例えとしては適している。何故こんなにも優しさというものに引っかかっているのかというと、あなたは優しい人ですかという問いに私が答えられないからである。私の優しさは意図的なものであり、優しくありたいと心がけた結果の行動でもある。それは果たして本当に優しいのだろうか。私は優しい人なのだろうか。
優しい人は優しいのだろうか、優しくしているのだろうか。宝石の話で例えるならば前者は天然で、後者は合成だ。ここでいう前者は存在するのだろうか。天然の優しさとは何だろう。無意識に、なんの打算もなく優しい。これだけを聞くと、私こそは天然に優しい人だ思う人もいれば、誰か身近な人を思い浮かべた人もいるかもしれない。しかし無意識に優しいとはどういうことだろう。本当に優しくしたいという意図もなく優しい人がいるだろうか。打算はないとしても、皆ある程度人に優しくしようと心がけた結果の行動として、意図的に優しいのではないだろうか。それは天然の優しさだと言えるだろうか。それを合成の優しさだとするならば、私は自身の中に前者の存在を確認したことはない。優しさがどこにあるのかを考えたときにそれがその精神にあるとした場合、天然は完全にその姿を消すことになる。何かを想う事が優しさならば優しさは全てにおいて意識的なのだ。
ここで私の友人の言った優しい人を思い出して欲しい。彼女の言う優しさは好意的な人に見出されるものであるからして、おそらくその人自身が意図せぬところで優しいのだ。これは意識的でも、打算的でもない天然の優しさだ。仮にその人が笑ったとすれば、彼女から見てそれは優しい笑顔なのだ。すなわち、天然の優しさとは自身の行動や精神には決して存在せず、他者にしか見出せないものなのだ。もちろんそこに何らかの意図が見えているならそれは天然とは言えないが、人は自分のこと以外では意図や意識は見えないこともあるのだ。相手の知らぬうちに優しさを感じてもらえたらそれは天然の優しさに成るのだ。自分から見てそれが合成であっても、それは相手にとって天然の価値があるのかもしれない。私は相変わらずあなたは優しい人ですかという問いに答えられないが、誰かが私を優しい人だと言うのならばそれは受け入れるべき真実なのだ。