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吉葉ひろし
吉葉ひろし
novelistID. 32011
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おもかげ

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「お食事がすんだ頃にお布団を敷きに来ます」
和服の女性は、食卓に料理を置きながら言った。
小沢はその女性の仕草の細やかさが洗練されたものであると感じた。
彼女は茶碗にご飯を盛り付けると
「あとはご自分でなさってください」
と言って部屋を出た。
普通なら広間で夕飯を食べるらしいのだが、小沢は別料金を出して、自分の部屋で食べることにした。
 5月とはいえ、すでに夏の暑さであった。とはいえ、小沢は酒を飲めないから、冷蔵庫からコーラを出して飲んでいた。それが、山菜の天ぷらを食べた後に飲むと実に良い。油で舌の感覚が鈍ったところを洗浄してくれるから、ヤマメの味がよくわかる。川のせせらぎが、1人の小沢に語りかける。
 すでに小沢は75歳になっていた。高齢者の自動車事故が新聞に載るたびに、小沢は運転免許の返納を考えていた。
返納する前に、自分の運転で、どこかへドライブに行こうと決めて、若い時に来たことのある、六合町を選んだのだ。
 尻焼き温泉から野反湖への道は、車1台が通れるだけの道幅で、もちろん舗装はされていない、轍ができた上に、草が轍のない道には50センチほど伸びていた。地元の人だけが利用する道だと教えてもらった。小沢は近道なのでこの道を選んだ。普通車なので車体の底が、バウンドするたびに地面に当たった。車が壊れるのではないかと思ったが、後戻りするにはバックで帰ることになる。Uターンできる場所がなかった。
「どうするの」
恋人の優香が心配した。
「1度決めたことだから、目的地を目指そう」
 青空が開けると、ニッコウキスゲが群生していた。そのオレンジがかった黄色の花は、1枚の壁画のように見えた。
「来てよかったわ」
優香の笑顔を見たのはそれが最後となった。
 小沢は結婚しないまま、75歳を迎えた。サイトで知り合った48歳の女性はハンドルネームを優子と名乗っていた。小沢はその名前が気に入った。彼女のプロフィールを見ると独身であった。小沢は優子に優香を重ね合わせていたのだろう。髪は長いですか?演歌は好きですか?などと質問していた。最初は1行足らずの返信だけであったが、2度目3度目とメールの文章は長くなった。小沢に合わせてくれているのかもしれないが、優子の返事は素直な答えが返ってきてくれた。何度目だろうか、小沢が会いたいといった時だけは、拒否された。小沢は電話でゆっくりと優子と話がしたかった。しかし、それも拒否されてしまった。小沢の気持ちの中では、優子は優香に変身していた。
 優子とのメールが途絶え、1か月ほどたったころ、手紙が届いた。差出人は伊藤麻衣と丁寧な毛筆で書かれていたが住所は書かれていなかった。小沢には心当たりはなかったが、優子からではないだろうかと思った。
 お会いできませんが、私の好きな香水です。メールではバーチャルの世界にのめりこんでいたのかもしれません。現実のわたくしは悪女ですわ。便箋に香水の香りがしみ込んでいた。
 小沢は専門店で調べてもらうと、ブルガリの緑茶をベースにしたものではないかと言うことだった.オ・パフメを購入すると、車の中で、肌につけてみた。便箋の香に似ていた。
 布団を敷きに来た、先ほどの女性から、良い香りを小沢は感じた。
「香水ですか」
「はい。1日でつける時間は今だけですが、お客様に少しでも、良い雰囲気を感じていただけたらと思いますので・・」
「ブルガリですか」
「分かるなんて、すごいわ。オ・パフメです」
小沢は、この女性は優子ではないだろうかと咄嗟に感じた。 新茶のさわやかな香りは女性の仕草からも感じたからである。
「明日はお帰りですか」
「尻焼き温泉に行こうかと思っています」
「午前中でしたら、ご案内できます。混浴ですから」
と、笑いながら言った。
「お願いしたいです」
「はい。10時に出ましょう」
小沢は、女性は自分のことを何か知っているのではないだろうかと思うほど、すんなりと話が決まった。
 以前に優香と来たときは、ただの川と思っていたが、温泉が流れていたのだった。女性は着替え場が男女同じところであることから、すでに水着を着ていた。驚いたのは小沢であった。女性も温泉に入るとは考えてもいなかったのだ。すでにバイクで来た若者が2人入っていた。小沢と女性は若者たちと離れて湯につかった。水着ながら、見える女性の肌は張りがあり、若々しく感じた。
「栃木からですね」
「はい。運転免許を返そうと思って、自分で運転する最後のドライブです」
「最後ですか。最後って言葉は淋しさを感じますわ」
「そうですね。淋しいですね」
小沢は、『あなたは優子さんと言う名前ですか』と尋ねたかったが、その言葉を飲み込んだ。
 10分ほどで湯から上がった。
 女性を宿に送っていく時間だけが残されていたが、小沢は何もしゃべることとが出来なかった。助手席に乗った女性から香水のさわやかな香りが、2人の会話であるかのようであった。
 優香が交通事故で命を絶ったのは、野反湖からの帰り、ドライブインでの出来事であった。食事を終えて、会計を優香が済ませて、お釣りの小銭を手に持ったまま、小沢に追いつこうと早足になった、その時小銭を落として、それを探しながらかがみこんだところに、乗用車にはねられてしまった。まともに頭部にあたり、昏睡状態のまま死亡した。
 小沢は早く車のエンジンをかけて、エアコンを効かせたかった。そんな優しさみたいなものは本当のやさしさではなかったと、なぜ待っていなかったのかと、後悔するばかりであった。
 そう言えば、優香は抹茶を点てたことがあった。小沢は作法を知らず優香に教えてもらった。優香の茶の香りは、助手席の女性から漂っている。これが至福なのだろうと小沢は感じた。






















作品名:おもかげ 作家名:吉葉ひろし