蘭陵王…仮面の美少年は、涙する。
相変わらず誰もいない私の家の中にそっと入り、シャワーを浴びる。私の家?私に所有権など何もないのだから私の家とは言えない。にも拘らず、そこで毎日生活しているのだから私の住み着いている、つまり、私と、猫と、Hồ の家との関係に何も違いなどありはしない。多くの人々がそうであるように。ノズルから降り注いだ水滴がわたしの体をうち、私の体の芳香を狭い空間の中に飛び散らせ、何かが誰かのためのものであったことなどついに一度もなかった。それらは飛散する。細かな光を明滅させてやまない水の匂いに混ざって、薄く、いつもより濡れた自分の体の匂いがする。Thô は言った、すべてのものが私の生を望んだのだと。私の白く華奢な、多くの女たちが溜息とともに、潤の手ってなんでそんなに綺麗なの?女の子のより綺麗じゃ駄目なんだよ、私は自分の手を翳す。自分の手を見せ付けて、彼女は、私を讃えながら、そして私は知っている。そうやって、彼女たちは私の手を自分の手にしてしまおうとするのだ、彼女の欲望のままに。私は、手で顔を撫ぜ水滴を払い落とし乍ら、媚びるように彼女たちはあの開かれた瞳孔の、この目の群れの中で、私は確かにあの画家を殺したのだ。Hồ ではない。殺したのは私に他ならない。それは比喩ではない。隠喩でもない。記憶が一気に私の体の中で迸る。土砂降りの雨のように。サイゴンの雨期の?台風の中の日本の?どこでもいい。皮膚の下を氷が這い、私は血の気を失う。Bính たちと別れた後、久しぶりに Hồ か、Thô 或いは Thơ 或いは Thố に顔を見せに立ち寄るのは、Long time no see. それだけだ。私は Hồ を見つけたに違いない。白いペンキを塗りたくった Hồ、絶命した Thô の傍らに立ち尽くしている彼を。Hồ は私を見つめたに違いない。あの泣きながら突然笑ったような眼差しで、私の視線の先に、Hồ は私を見ていた。ややあって、私は立ち去り、Hồ はそれを止めようともしない。彼は知っている。私は彼を裏切りなどしない。裏切るためには言葉が必要だ。辞書5ページ分の語彙しか持たない彼に自分を裏切ることなどできようはずもない。憑り付かれたようにバイクに走り乗って、私は街路樹をよじ登ったに違いない。私が画材入れの中から錆びた鋏を見つけだすのに時間はかからなかった。彼の喉もとに突き立てられたそれが、そして私の後を追うしかなかったHồはバイクにまたがったまま街路樹の下で見上げたが、彼は何を思ったのだろう?最期の時に。体の神経系はそのとき、何を認識し、何を識別したのだろう?苦痛を、彼の身体はどのように感じ、その感覚を、どのように処理したのか?ささやかな騒ぎが起こっていた。私は耳を澄ます。髪の毛をぬらしたまま外に出ると、向こうの Thô の家の裏口にできた疎らな人だかりから声が立っている。間歇的に非難の喚声が、しかし、それは疎らに消えていくしかない。誰をも救えないままに世界が今自分だけのせいで終わるような表情で、血相を変えてあたふたしている Thổ が、私を認めると、一瞬で彼はあの陰惨な表情に変わる。彼は立ち尽くし、私を見つめ乍ら、彼は私を殺してしまうかもしれない。いつか。息を吸い込んだ次の瞬間にでも。見上げられた彼らの視線の先には三階建ての家屋のバルコニーの手すりの上に、器用に飛び乗って、あの林邑風の面をつけたままたたずんでいる Hồ を私は見つけた。何をしている? ...Em làm gì ? 私は Hồ に微笑みかける。そんなところで、何を?飛び降りるつもりもなければ飛び上がる気もない。ましてや飛び立つこともない。笑うしかない。ベランダの奥で、Quần は立っている。戻って来いと言うその強制的な命令に Hồ は耳を貸そうともしないまま、ただ、たたずんで、何を見ているのか?その視線の先に、先のほうに視線を投げたまま、Go ! と不意に妻が私の手を引いた。後ろから、Go, it’s not your job. とがめるような眼差しで彼女は言い、くだりません、と言ったが、くだらないの語尾変化を未だ彼女には教えていない。私は為すにまかせ、It’s Quần’s job, not yours. くだらないことに関わるな、と手を引かれて家の中に入りながら、Why ? Sao việc của Quần ? 彼はあの家の新しい Boss なのよ、と彼女は He is new boss of them. 言った。確かにそうだった。Thô の私の会った事もない息子たちは何年か前に死んでいて、公式的にかどうかはともかく Quần は Thô の現存する唯一の息子なのだから、そうに違いない。彼はあそこを売りさばくはずよ。だって、He will sell out there for somebody, land of them 彼にはほかに家があるし、今、cos’ このあたりの土地は he have house of his own and 高いのだから。私は now land of Đà Nẵng Dắt. 指をはじいて、紙幣のジェスチャーをする妻のその細い指先を見る。不意に、ややあって、You know ? 彼女は言った。You had baby. 小さく、声を立てて笑い乍ら、額に細かいしわさえ寄せて。You… you go hospital ? 私は、あまりな私の言葉に一瞬笑い出しそうに為り乍ら、完璧に満ち足りた表情のまま、彼女は言った。Now, you are dady, you know ? 私は指さきをのばし、そっと、その腹部にふれる。
沙陀調音取
子どもの遺影の入ったスマホの修理に出掛けたまま、なかなか帰ってこない妻を待つ。カンボジアの平原がどこまでも広がる。Phở フォー の店の主人が傍らの犬の腹を踏んづけると、長い悲鳴が立つ。熱帯の陽光の中に、更地の、にも拘らず誰も手を付けようとはしない国境近くのそこは、不意に雪が散らつく。私は瞬く。雪のような切片がいくつも視界全体に現れて、わずかばかり上昇したように見え、消えて行く。まだ早いはずだと私が思う。今日ではない。少なくとも、あと数週間は。にも拘らず、私の視界がいくつもの雪の切片を散乱させる。計算上のミスなのか、それともこういうものなのか。周囲の疎らな人々も、時に目をこすり、私が息をつく。例えば、核分裂の青白い炎が眼球の中にしか見えないように、これは見い出されただけの風景にすぎなかったには違いない。明らかに距離感を破綻させた遠い近さの、がついに触れ得ないものに手を伸ばす。本当はどんな風に見えているのか、はついに見えないまま、あるいは、しかいとはがんきゅうのげんじつそのものにほかならない、わたしはそれをあからさまにおもいだすわたしはてをのばしそのままそれはなににもふれないまままばたきわたしは今、熱帯の平原は今、雪に包まれていた。
2017.07.07-13
Seno-Lê Ma
作品名:蘭陵王…仮面の美少年は、涙する。 作家名:Seno-Le Ma