時間という概念
全ての出来事は時間という概念があること前提、いや、当たり前すぎて前提だという意識すらもはや無いかも知れない。
では果たして時間という概念は何物なのだろう。ここでは、時間は二種類に分類して考える。
一つは、時計などで示される万人共通の時間である。“1分”は時計が身近にある人なら誰でも同じ長さで数えることができる。そして時計のある生活に浸っている私たちは、
「時計を見ないで1分数えてください」
と言われれば多少誤差はあるものの、一分を数えることができる。この時間のことを客観的時間と私は考えている。
もう一つは私たちの身体で捉えられる“時間”である。例えば、私たちが自分の好きなことをしながら過ごす1時間と、苦痛で嫌なことをして過ごす1時間の感じ方に差異を感じたことはないだろうか。おそらく大半の人は前者はあっという間に感じて、後者は長く長く感じることだろう。もし、時計も窓もない密室でこのように時間を過ごしたとしたら、我々は客観的時間を見失うといってもよいだろう。このような客観的時間を狂わせてしまう体感的時間を私は主観的時間と考えている。
だが、言うまでも無く、客観的時間は周りの環境の変化によって認識され、創造された時間だ。そして、大昔の人間がこれを認識した時に、他の動物とは違って“人間”になったとも言えよう。つまり、人間以外の動物は私の言う主観的時間に生きているに違いない。いや、そもそも時間という概念は動物にとっては無いも同然かもしれない。だとしたら主観的時間は客観的時間によって描かれた幻想となる。
したがって、時間という概念は客観的時間の出現によって確立されたものだ。時間という概念=客観的時間といっていいだろう。
だがしかし、客観的時間のなかでの社会の目まぐるしい変化による疲弊は、私をその幻想へと誘う。