茨城政府
5.不可逆
「俺の先祖は、フィリピンでプランテーションをやっていたのに、今の俺はなんだ!」
強めのテキサス訛りで話題を変えたリチャード・モルソンが、空にしたグラスをデスクに置く。硬い音が寮の部屋に響き、デスクスタンドの周りには空になったバドワイザーの瓶が並ぶ。
「おいおい、またその話か、そんな昔のことに苛立っても仕方ないだろ?」
ロックのバーボンを煽ったリチャードの顔に変化はない。
そもそも酒を飲んで赤くなるのは日本人みたいなモンゴロイドに多い。生粋の白人である俺たちは、酒ぐらいで色は変わらん。日本人は政治家でさえ酒でとんでもない発言をして歯車を狂わす。だいたいチビの日本人が生意気に酒なんか飲むからだ。オランダ人のアントン・ズールデンは、リチャードをなだめながら思う。
白人至上主義人種差別秘密結社AAAのメンバーだというリチャードほどではないが、心のどこかで有色人種を疎ましく思うことがある。リチャードに影響されたからだ。と思いたいが、そうでもないらしい。
「まあ、リッチの話を聞いてやれよ。」
合図のようにスコッチウィスキーのグラスを軽く上げたリック・アスリーの茶色の瞳が笑っている。そもそもリチャードをリッチと呼ぶのは、裕福だった先祖の昔話をする彼への皮肉もあることはリックとアントンだけの秘密だ。
イギリス人のリックに両肩を上げ下げしておどけた表情で返したアントンが先を促す。
「で、フィリピンでどうしたんだ?さぞかし美味いバナナが採れただろうな。」
喉を鳴らしてハイネケンを飲み干したアントンがビールにしては珍しい全面緑色の缶を片手で潰すと、空いたもう一方の手でリチャードにチーズを差し出す。
つくば大学の学生寮。洗練された個室にアメリカ人、オランダ人、イギリス人の三人の留学生がそれぞれ酒を持ち寄って語らうのは週末恒例のことだったが、リックとアントンは今日のリチャードの様子にどこか違和感を覚えていた。
「ああ、バナナだけじゃない。俺の御先祖様は、かなり贅沢な暮らしをしていたらしい。それにワシントンにだって影響力があったのに、今じゃこの体たらくだ。」
鼻を膨らませてゆっくりと息を吐きながらバーボンの揮発アルコールの刺激を味うリチャードは自重気味に肩を竦める。
「何でだと思う?何故こうなっちまったんだ?」
研究室で日本人と接している時とはまるで違う雑な英語と虚ろな目が反応を確かめるようにイギリス人とオランダ人の間を行き来する。
「ジャップだ。」
吐き捨てるように勢いよくグラスをデスクに置く。もちろんそれぐらいで割れるようなウィスキーグラスではないが、その音は、耳障りというレベルを超えて二人の直接耳に入る。
「おいおい、日本人と言えよ。ジャップ呼ばわりは国に帰ってからやればいい。」
騒音と日本人の蔑称を吐き出したリチャードをビールでは酔いもしないアントンは顔をしかめてたしなめる。
「ジャップはジャップだ。
なんでこんな世界になっちまったのか?
考えれば考えるほどお前らだってジャップと呼びたくなるぜ。イギリスもオランダも植民地大国だったんだからな。特にアントン、あんたの国なんざ海面が上昇したら海の底だろ?オランダ人が逃げ込める領土なんて今はどこにもない。」
27歳のアントンは、地球温暖化による海面上昇によって国土が海没する危機を回避する研究をしたくて大学に入り、卒業後も研究員として大学で研究を続けている。「時空転換装置」に活路を見出した教授の肝いりで派遣されている。留学で来ている24歳のリックや25歳のリチャードとは志も立場も違う。だから遠慮のないアメリカ人の物言いにもいちいち腹立てたりはしない。
「まあね。俺の御先祖様もそりゃあインドネシアで好き放題やってたらしいが、日本人が来て全てを失った。しかも強制収容所に入れられて相当苦労したらしい。なにせ、インドネシアじゃ召使いや奴隷を大勢使ってたからな、日本人が降伏した後、現地で裁判をやって、何人も死刑にしたって言うが、今でも日本人を嫌うオランダ人は多いんだ。」
「だろ?ジャップの分際で生意気なんだよ。」
リチャードが煽るが、アントンは淡々と続ける。
「挙句、独立戦争が起きて、占領中に日本人が作ったインドネシア人の軍隊と、その教官を含めて残留した日本兵3000人も加わってボロ負けした。しかも軍隊を作っただけじゃない。日本人はインドネシア語を公用語として認めて学校教育も行い、インドネシア人職員を育成して自治も行わせるようにしたんだ。一方で労務者と呼んで様々な使役をさせたらしいが、とにかく日本人が来る前と来た後では、インドネシア人のレベルがまるで違っていたんだ。そういう意味では俺達の先祖は、搾取するだけだったんだな。って思うよ。」
「ジャップだって、あんたらオランダに取って代わって植民地の甘い汁を吸いたかっただけなんだろうよ。」
そう言うと、氷を入れるのも面倒になったリチャードはグラスに注いだバーボンのストレートを口に運ぶ。
−おいおい、取って代わったのはアメリカだって同じだろう!−
軍艦メイン号の爆沈事故でスペインにイチャモン付けて戦争を始めたくせに!
『Remember the Maine, to Hell with Spain!(メインを忘れるな、くたばれスペイン!)』
ってスローガンでスペインを打ち負かし、フィリピンを始め太平洋とカリブ海にあるスペインの植民地をことごとく奪った。ん?そういえば真珠湾もそうだったな。アメリカ人は『Remember』って言葉で熱くなれる国民らしい。
ま、そんなことをリッチに言ったところで無駄だろうな。コイツは強引さをリーダーシップと勘違いしている。
そう思いながらアントンは次のハイネケンを開け、噴き出した泡に慌てて口を付ける。
「いや、そうでもない。日本人が祖先にした仕打ちは褒められたものじゃないが、オランダは350年もインドネシアを植民地支配して彼らに何も与えなかったが、日本はわずか数年で彼らに国家の作り方を教えたんだ。」
「おいおい、オランダはすっかり日本びいきになっちまったらしいな。イギリスは何か言うことないのかよ。」
リックを指さすようにグラスを向ける。
「俺も同じさ、もっとも俺の祖先は本国から植民地経営をしていたから、日本軍にどうこうされた、ということはないがね。何もかも失ったのは同じだ。」
リチャードとは対照的に、優雅な仕草でロックアイスを足したグラスに丁寧にスコッチウィスキーを注ぐ。
「何もかも、とは言っても、今も本土に城を持ってるけどね。そういう意味じゃ、あんたやアントンは気の毒だ。」
同情するように言うと、スコッチを口に運ぶ。
「なるほどね。みんな元名門、ってとこだな。じゃあ、これから俺が話すことに異議はなさそうだな。」
確かめるように二人を見るリチャードの目は射るように鋭くなった。酔って目が泳いでいるのとは違う。
「そもそも日本が戦争をしなければ、こんなことにはならなかったんだ。俺はそう考えている。」