羽衣(掌編集~今月のイラスト~)
男はしばし茫然とした。
男の職業は泥棒だ。
子供の頃の万引きに端を発して、スリ、こそ泥、引ったくりと手を広げ、最近はATM荒らしにまで手を出している、中々に周到な性質でその都度巧みに逃げおおせて来たが、今回ばかりは危なかった。
警察がアパートに踏み込んで来た時にたまたまコンビニへ買い物に行っていて部屋を空けていたのが幸いだった、男はその場をそっと離れて逃亡したのだが、コンビニへ出かけていただけだったのでスウェットの上下と言う軽装にサンダル履き、財布を持っていたのだけは幸運だった、『仕事』をしたばかりだったので中身もぎっしり詰まっていたのだ。
もっとも、カード払いやATMは使えない、その職業の特殊性からして銀行は使えないから、もっぱら箪笥預金なのだがその預金も押収されてしまっている事だろう、悔しいがほとぼりが冷めるまでは大人しく隠れているほかはない。
男はとりあえず山間の湯治場に腰を落ち着けた。
現代社会から取り残されたようなこの湯治場の、時の流れからも取り残されたような宿ならば長逗留しても怪しまれる事はないだろうし、警察の目も届き難いだろうと思っての事だ、享楽的な性格の男には退屈極まりないが、とにかく身を隠す必要があるのだ。
とにかくここでは自炊と湯に入るくらいしかやることがないし、湯治客を装うにはちょくちょく湯に浸かる必要もある、今日もこれで三度目の湯だった。
山間の秘湯のこと、混浴ではあるが、これまで目にして来たのはしなびた婆さんばかりだった。
そんな湯に若い女の艶めかしい裸体……。
男はとっさに物陰に身を隠し、その美しい神の造形を存分に堪能した。
女遊びは散々やって来たから女の裸が珍しいわけではない、だが、この宿に身を隠してからはまるで隠居の生活、久々に血が騒ぎ、精神に活力が戻って来るような心持がした。
(おや?……)
男の目がふと松の枝にふわりと掛けられた衣に止まった。
万葉の昔ならともかく、現代では半ば透けていて羽のように軽い素材は珍しくもない、しかし、その衣がそよ風に漂うように揺らぐのを見ていると妙に血が騒いだ。
(あれを我が物にしたい……そしてもちろんその中身も……)
「あっ……誰です!?」
「名乗るほどの者じゃないさ」
「その衣を返して下さい」
「そういうわけにもいかねぇな」
「それを盗られてはお湯から上ることもできません」
「そりゃそうだろうな……だけど、俺はもうじっくりと堪能させてもらったぜ、あんたの綺麗な裸をな、それに……」
男はスマホをひらひらと揺らして見せた。
「え? 写真を?……」
「ああ、バッチリ撮っちまった、ヘアヌード写真集が出せるくらいにな」
「それをどうしようと……」
「さあね……まあ、俺だけの密かな楽しみにしても良いんだが、ちょいとこいつを操作すればあっという間にネット上に広まることになるな」
「まさか、そんなことを……」
「社会的地位のある奴ならそんなバカはしないかもしれないがね、あいにく俺は警察に追われている身だ、人を殺したり傷つけたりこそしちゃいねぇが、ガキのころから手癖が悪くてね、盗みの類なら一通りやって来た男さ、この湯治場にやって来たのも追っ手から逃れるためなんだよ、この衣と引き換えにちょいとばかり楽しませてもらいてぇと思うんだがどうだい? まぁこの取引に応じてもらえねぇとなればこの衣は灰になるだけだがね……もっとも、取引に応じてくれなくてもお前さんを諦める気はさらさらねぇんだ、素直にオーケーしてくれた方がお互いのためだと思うがね」
「卑劣な……」
「まあ、聖人君子でないことくらいは自覚してるよ」
「今、警察に追われている身だと……」
「そうだな、確かにそう言ったよ」
「○○町のATM荒らしはもしや……」
「へえ、こんな山間でもニュースになってるのかい?……まあ、BSはその為にあるようなもんだからな」
「あれはあなたの?」
「そうさ、俺の仕業だよ」
「なるほど、わかりました……あなたには黙秘権があり、証言は不利な証拠として用いられる場合がありますよ」
「は? 何を言ってるんだ? あまり舐めた口を利くと写真を……」
「そのスマホは電源が入っていないんじゃないかしら?」
「……どうしてそれを……」
「アシがつく可能性は少しでも避けないとね、なかなか賢明よ」
「お前は……」
「残念でした、あたしはこれでも警察官なの」
「な…………衣は本当に燃やすぞ!」
「どうぞ……窃盗と脅迫に加えて器物破損も罪状に追加されるだけよ」
「この衣がないとお前は……」
「あのね、この温泉、良く犯罪者が隠れに来るのよ、あたしはこの村の駐在、そして唯一の同僚は夫なの、だから裸を見られても別に今更なのよね……あんた、出番よ……」
(終わり)
作品名:羽衣(掌編集~今月のイラスト~) 作家名:ST