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ペルセポネの思惑

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 扉を開けた途端に感じたのは、鼻を突き刺すような饐えた臭いだった。俺は悪臭に顔をしかめながら中に歩を進める。
 前方に何かが蠢いているのが見える。だが暗くてよく見えない。俺はさらに歩みを進め、アトリエのほぼ中央にいる先ほどから蠢いている物体がちゃんと視界に入るようにする。
 髪も髭も伸び放題伸び、ボロを身にまとったどこか目の焦点が定まらない男が、首だけを捻ってこちらを見つめていた。男は、何の感情も沸かなかったかのように再び首を前に戻すと、ぶつぶつと何かを呟きながらさらさらとペンを走らせた。
 この男が、九ノ崎家の当主である九ノ崎 厳馬であり、かつて画壇界に一大勢力を誇った九ノ崎 峰扇の成れの果てなのだろうか。

 その男のさらに前方に、異様な物体が吊り下がっていた。

 パッと見、巨大なかつおぶしのようである「それ」は、今はすっかり色あせた晴れ着であっただろう布きれを羽織り、うつろな目でジッとペンを走らせ続ける男を見下ろしていた。

 祖母の話の通り、母がそこにいた。


「待て、それはおかしくないか」
話が核心に入っていく段階だったが、私は峰澤の話を遮った。
「映美子さんが首を吊ったのは峰澤、お前が生まれてすぐのはずじゃないか。
 二十数年も経っていたら遺体はそれこそ骨しか残っていないだろう?」
峰澤は私のこの指摘になんら動じる事なく、反対に私に問いかけてきた。
「『死ぬ』の死に、『蝋燭』の蝋と書いて、『死蝋』という言葉を知っているか?」
「しろう?」
「簡単に言えば、遺体が腐敗を免れ肌がろうそくの「ろう」のようになる現象だ。
 これも、世界中に例は数え切れないほどあるはずだ。
 概ね、湿度が高くて温度の低い場所で起こりやすいらしい。
 あの土蔵はジメジメして湿気が多く、暗くてなかなか日も射さない。
 従って、映美子の遺体を死蝋化させる格好の条件が揃っていたんだ」
頷く私を確認して、峰澤は話を再開した。


 俺は、映美子の遺体に思わず駆け寄っていた。触れるのにはさすがに躊躇してしまったが、それでも見た事のなかった母の面影が手に取るようにわかる。俺は、母との再会(亡骸ではあるが)を喜ぶとともに、改めて母の辿った悲惨な運命を呪わずにはいられなかった。
 その瞬間。正面に座り込んでさらさらとペンを走らせている男の、ぶつぶつ呟く声が聞こえた。さっきから何やら小声で呟いているなとは思っていたが、内容は全く聞えて来なかった。それが急に、あたかも拒んでいた音を耳が突然通したかのように、その時はっきりと聞こえ出した。

「腐らない」

「腐らない」

「腐らない、腐らない」
「腐らない、腐らない、腐らない」

「腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない、腐らない」

男の呟きが、渦巻く咆哮となって俺を襲う。その咆哮にまみれながら、俺は祖母の話の中での厳馬の言葉を思い出した。

『俺はこの女の死体を、腐り落ちていく様を、作品にする』

そうだ。この男はやはり厳馬なのだ。そして厳馬は、映美子のその体が腐り落ちるのをいまだに待ち続けているのだ。

 だが、映美子の死体は死蝋化して二十年以上経った今でも腐り落ちずにいる。それ故に厳馬は、腐り落ちない映美子を二十年以上もの間必死に描き続け、そして精神に異常をきたしてしまったのだ。だが、正気を失ってもなお厳馬は、執念深く映美子の死体が腐るその瞬間を絵に残そうと待ち構えている。
 即ちこの男は、あの惨劇から二十年が経っても、気が触れようとも、この期に及んでなお映美子を辱め、晒し者にしようとしているのだ。

 俺は怒りに震えた。厳馬のその執念には脱帽せざるを得ない。だが、母をこれ以上悲しい目に合わせてはならない。それが例え父であっても。いや、こんな男父と呼ぶには値しない。

 今すぐこのアトリエを、この淀みきった世界を、終わらせてやる。俺はアトリエを飛び出した。

作品名:ペルセポネの思惑 作家名:六色塔