春
この時期になると、私はチャコのことを思い出す。
チャコは、私が小さい頃に飼っていた白猫だった。体が弱くて、まだほんの仔猫だったにもかかわらず、私が7歳の時に死んでしまった。
死んだチャコの体を埋めたのが、この桜の木の根元だった。あの時も足元はこんな風に花びらが降り積もっていた。浅く掘った穴に滑らかな白い体を横たえると、薄紅色がひとつふたつ落ちかかってきて、それはとてもきれいな死に化粧だった。チャコもお花に囲まれてきっと喜んでいるね、と母が目を潤ませながら言った。長く生きられなくて可哀そうだったけれど、と。
どこかで採ってきたザリガニやらオタマジャクシやらを除けば、チャコは私が初めてちゃんと買ってもらったペットだった。途中から世話は母に任せきりだったにもかかわらず、昨日まで生きて動いていたいのちが突然目の前からいなくなってしまったことに茫然として、それから一週間くらいは泣き続けた。普段祈りもしない神様に、もう一度チャコに会わせてください、などと何度も何度も願った。
私がほんとうにもう一度チャコに会うことになるのは、それからまた一週間ののちのことだった。
あの朝、私はいつものように公園の桜の木の根元へと走った。チャコの墓にお参りしてから登校するのが日課になっていた。家のドアを開けた瞬間、あたたかい土のにおいと、春らしい麗らかな光が私を包んだ。陽気に誘われて足取りは軽かった。だが、もうすっかり葉だけになっていた桜の木の前に来た時、そこで私の足はぴたりと止まってしまった。
墓穴が掘り返されていた。その手前には、変わり果てたチャコの死体。顔と手足は潰れ、肉体は腐って黒く変色している。泥で汚れ、茶色くまだらに残った体毛の間を、二匹の蛆虫が這い回っていた。
私は暫くの間一歩も動けなかった。見上げると苔むした木の幹に蟻の列ができていた。甲高い鳥の声がした。蝶の羽ばたく音が聞こえた。大地を突き破って、雑草の芽吹く音すら聞こえた気がした。
木漏れ日がちらりと目に突き刺さった瞬間、すべての音が途絶えた。私は弾かれたように走り出した。家まで走って走って、急いでドアを閉めた。音に驚いた母が飛んできて、その顔を見た瞬間、私はわっと泣き出した。
母は事情を聞いてくれたが、虫嫌いな母もやはりチャコの体に触ることができなかった。私は公園の方を見ないようにしながら、とりあえず学校へ行き、同じようにして帰ってきた。夜父が帰ってきてから、ようやく埋葬作業が始まった。墓穴が浅かったために、おおかた野良犬にでも掘り返されたのだろうと結論付けられた。だからチャコの体はさらに深い地の底へと沈んでいった。土をかける時、チャコの黒い肉体が再びみみずやらとびむしやらの、様々な有象無象に貪られていくような気がした。
春になると、チャコのことを思い出す。チャコの体を食い破って動き出した別のいのちのことを思い出す。
あの時から、私にとって春とは、あらゆるいきものが蠢動する季節になった。土の中に耳を澄ますと、なにかが脈打ち、蠢いている気がする。大地の奥深くで植物達が根を張り、チャコの腐った死体を突き破って、一斉に大気に芽を吹く。そんなイメージ。
今日も桜の根元には、ひとつのいのちの終わりがある。木漏れ日の中で、一匹の蜥蜴が黒く干からびて死に、その体に無数の蟻が群がっている。ひとつのいのちの終焉は、無数のいのちの誕生を予感させる。
気がつくと、花はもう殆ど散りかけていた。やわらかな光の中にすべてを溶かし込んで、春の日はゆっくりと過ぎていく。