睡蓮の書 五、生命の章
「そう。おれたちが行くんだ」と、ラアは答えた。「ねえ、シエン」
そこで唐突に話をふられたシエンは、今気づいたというように顔を上げた。
中央の会議室。新月となるその日、東西南すべての神々は中央神殿に集められた。
シエンの後ろに立つ西の女神たちは、初めて踏み入るこの神殿の巨大さにおののき、また戦を目前にしたこの状況に、不安げに身を寄せ合っている。狭い会議室に、ほぼすべての神々が集められたが、それでも窮屈というほどではなかった。
ラアは上段にある背もたれ椅子にふかぶかと腰かけ、シエンの返事も待たずにこう言った。
「だって、そうしないと、ウシルに怒られちゃう」
ころころと笑うラアに、ヤナセは呆気にとられ瞬く。
冥府の王と呼ばれる者の名を、まるで知人にするように、戯れに口にするとは。……いや、それよりも、戦を前にしているとは思えないほどの、この緊張感のなさはどうだ。
確かに、北が千年前のハピをよみがえらせ、その力を得たというならば、放置していては危険である。こちらから行動してしかるべきなのだろう。だが、それにしても、ラアはなぜこのように笑っていられるのか。ヤナセは苛立ちを通り越して、どこか奇妙な思いを抱かずにいられない。
負けるはずがないとの自信の表れであるのならよい、しかし油断が仇となってはどうするのか――。
ふっと短く息を吐き、ヤナセは自身の思考を断ち切った。……自分はいったい何を焦っているのか。戦はもう目前なのだ、今更何をしても変わりはしない。今はただ、王たる彼を信じ、それを支えなければならないはずだ。
それに、これこそがラア「らしさ」といえるものではないか。…… こんなときまで、相変わらず。
ヤナセはそうして、やれやれと肩をすくめてみせると、言った。
「仰せの通りに、王様」
シエンは二人のやり取りをぼんやりと眺めていた。実のところ、考え事をしていて、話が入っていなかったのだ。
考え事というのはもちろん、今夜の戦についてである。彼には明確になすべきことがあったのだ。
シエンの手の内に握る、彼の剣の「原石」。……行かねばならない。地下に、あの場に――セトの、いる場所に。彼にとってこの戦は、守るためのものではない。奪い取るためのものなのだ。
「おれは、ハピのところに行く」
ラアが言った。
「ハピには、おれ一人で会いたい」
そうしてラアはすっとその目を鋭くした。彼の意識の内側に敵が映されているのだろうか。瞳の漆黒が、じんわりと深くなる。
ヤナセは思わず身震いした。ラアがあの「力」を暴走させたときの光景が脳裏をよぎったためだ。――またそのために、事実彼はひとりでよい、そのほうが良いのであろうと考えた。
今はその上ホルアクティの力をも得たという彼が、戦を前にこれほど余裕を持てるのも、なるほど当然なのかもしれない。
「では私は、道中の障害を払うとしよう」
ヤナセは言う。すると彼の意思に応じるように、室内を一陣の風がめぐり、駆け抜けた。
「うん、頼りにしてる」
ラアは笑顔でそれを受けとった。
それから、技神カナスを向くと、「カナスも、一緒に行こう。手伝って」
部屋の壁に背を預けて立っていたカナスが、は、と目を見開いた。
彼女のうちに、そのとき、押し込めていた不安が思わず湧き上がった。太陽神の下で力を尽くす女神「技神セクメト」。しかし、自身にそれに足る力があるだろうか。ラアとならび戦う力、守る力が、あるだろうか、と。
ラアは、黒曜の瞳を大きく開いて、瞬きもせず彼女を映すと、
「おれは、早くハピに会いたいんだ」だから、と、彼は言った。「だれにも、邪魔させないで」
それは、守るためでも、共に並び立つためでもなく、主神の進む道を開くために。
ただ敵を打ち倒せばいいのだと。
カナスはくっと顎を引き、うなずいた。
その手の内で、聖槍の黄金が、高い格子窓から注ぐ陽光に照らされ、静かに輝きを放つ。迷いはもう、払われていた。
「シエン、地下におりるんだろ」
会議室を出たところで呼び止められる。振り向くと、キレスがいた。
「手伝ってやるよ。ただし、途中までな」
返事をためらうようすのシエンに、しかしキレスはかまわず、
「あの『大地の剣』、どうにかしろよ。はっきり言って近寄りたくない」
そう続け、顔をしかめて見せた。
なるほど「大地の剣」はキレスの唯一の天敵といえるのだろう。しかし、まるでこちらが何をするのか分かっているふうな口ぶりだ。
実際、彼は分かっているに違いない。
キレスは言いたいことだけ言うと、くるりと背を向け行ってしまった。
肩の上で揃えた黒髪が左右に揺れる。首元にもう赤いビーズ飾りはない。けれど、彼の手足は以前のようにさまざまなビーズ細工に飾られ、それらが歩くたび涼やかな音を立てた。
その姿に、シエンはぎゅと胸がしぼられる思いがした。
彼と言葉を交わすのは、久しぶりだった。彼に話しかけることを、ためらっていたのだ。
……ケオルの葬儀は、あの日の翌朝に執り行われた。
葬儀の知らせを受けたとき、早すぎはしないかと思った。葬儀を仕切るのはキレスである。彼の、片割れがなくなったというのに、……たった一日で。切り替えが早すぎるのではないか、無理をしているのではないかと、そう思った。
河畔に立つキレスは、あまり表情に陰りなどないように感じられた。いつもするように、淡々と――しかしそのことが一層シエンの胸を締め付けた。兄弟の死を嘆き悲しむべきだといいたいのではない。自分がしたように、その原因を自身に転じるようなことなど決してしてほしくない、けれど……。
シエン自身もまだ容易には受け容れられないその事実を、そうでなくても不安定に陥りやすい彼が、受け止められたというには、あまりにあっさりしすぎているように思えたのだ。
彼はそのときすでに、今と同じ――これまでの通りに、彼らしくさまざまな装飾品で身を飾っていた。それは以前の自分を取り戻したというよりも、失った兄弟の姿に似せることでそれを意識してしまう、そうしたことを避けているようにも思われた。
取り越し苦労であればいい。けれど、もし彼が、事実の受け入れを拒んでいるのだとしたら……、それを誰より悲しむのは、ケオルであるに違いない。
シエンはもう一度、キレスの姿を探した。しかし、そこに彼の気配はもうなかった。
(お前が一番、心配だろう。ケオル……)
キレスの後ろ姿に、今でも、どきりとしてしまうことがある。
今日の会議でもそうだ。議事録を取っていたのは、今は唯一の知属神となった、東の女神マキアだった。いつもケオルがしていたように、黙々とペンを走らせる様子に、思わず彼の姿を重ねてしまう自分がいる。つい、数日前、彼は確かにそこにいたのだ。
そうした思いを抱くことは、重く苦しいことだ。
キレスも同じように見ていたのだろうか? ――いや、それならまだ救われる。もし、もしも、わざとそうした意識を持たぬようにしているのだとしたら、そうした重苦しさを避けているのだとしたら……。
抑えたものは決して消えはしない、ただ持ち送られるだけ。……それは、自分自身が、経験してきたことだ。
作品名:睡蓮の書 五、生命の章 作家名:文目ゆうき