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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 五、生命の章

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五、生命の章・序



 九日目の夜が明けた。
 南の森を見下ろす岸壁の際がうっすらと白みはじめるころ、その神殿の中庭で、
 ラアは、やっと、目を覚ました。
 包んでいた結界がはじけて消え去ると、そばで眠っていたカムアもはっとそれに気づき、顔を起こす。
 ほの暗い中庭に立つラアの双眸は、金の光を湛えていた。
 カムアは息を呑んだ。それは彼の知るラアの様子とはまるで違っていた。遠くに馳せたその瞳に、いつもの活き活きとした輝きはなかった。厳かに静かに、まるで幻のようにそこにあるばかりで、カムアの存在に気づかないか、気づこうともしない。それは、ただラアの姿かたちをしているだけの「何か」だった。
 カムアは不安げにその人を見上げた。ウシルの息子ホルアクティ、その人格をラアの内によみがえらせるのだと言った。目の前の人物がホルアクティであるなら、ラアはどこに行ってしまったのか。戻って、もう一度会うことは、できないのだろうか……?
 やがて対岸の山に日が覗くと、河から立ちのぼる蒸気をきらきらと輝かせ、光があたりを満ちる。
 それはラアの姿をかたどり、ぼうやりと浮き上がらせた。
 影のうちで、その人はゆっくりとまばたきをする。と、瞳の色が黒曜のそれに戻り、日の光に呼び覚まされるように、彼の活力ともいうべきものがそこに確かに満ちるのを感じた。
「ラア……!」
 カムアが名を呼ぶと、彼は今度こそこちらへにっこりと笑みかけた。
「ただいま」
 その変わらぬ笑顔。
 カムアは、久々に隔てるものなく目の前にある、彼の親友、主を、自身の感覚いっぱいに感じてみた。……抑えることなく溢れ出るその暖み。彼のまとう、目に見えない光のまぶしさ。それは注ぐ朝の陽光をかき消すほど強くある。そして、目を閉じると、それらを生じる闇のいろ。その奥に、小さくとも確かに灯る、金のきらめき――。
 ラアだ。変わらない……いや、以前よりはっきりと、妨げも迷いもなく、彼はずっと彼らしくそこにある。
 カムアはうれしくて、うれしくて、自然と顔がほころぶのを感じた。ラアはその様子を見て、また猫のように目を細めて笑うのだった。
 それから、ふーっと息をつき、ラアは天を仰いだ。 
「今夜は、新月だね」
 その言葉にカムアははっと身を強張らせた。
 新月。戦のとき。生命神率いる北神らとの、最後の戦が、始まるのだ。
 ラアはしばらく無言で仰いでいたが、ふと口を開くと、
「ホルアクティとね、話してたんだ」
 と言った。
「眠ってる間、ずっと、話してた。どうして戦うのかって、そう聞くから、おれ、言ったんだ」
 ラアの瞳の漆黒が、カムアを捉える。
「生きるためだって」
 変わらぬ彼の軸。カムアはうなずいてそれに応えた。
 ラアは続ける。
「ホルアクティはね、お兄さんとあんまり戦いたくないんだよ。でも、そうやって前に、最後まできちんとやらなかったことを、後悔もしてる。おれは、ちゃんと、終わらせるからって、そう言った」
 カムアは知った。ラアと、ウシルの息子ホルアクティは、まったく別の「個」であると。決してひとつにはならないのだと。
「それを約束したんだ。……きみに約束したみたいに」
 そうしてラアは勝気な笑みを浮かべて見せた。
「ホルアクティは、どこに……?」
「いるよ、おれの中に」
 ラアはふわりと風をまとわせ、額を露にした。そこには赤い光の筋が円を描いている。
「ちゃんと、最後を見届けるんだって」
 と、ラアは言った。カムアはきゅと唇を結ぶ。そうして、それが障りになることのないように、ラアの力となるようにと、ただ祈った。
 ラアのうちに、ホルアクティが宿る。そういえば誰に教わったのだろうとカムアは思う。夢の中の闇いろ、昼のうらがわ……もしかしたらそれは、毎夜見上げていた空そのものだったのかもしれない。自分自身を、世界を広く覆うもの。それは遥か遠くにあるようで、いつも近くにあるような――。
 ふわあっ、とラアが大きなあくびをした。
「眠いよ、カムア」
 ふにゃふにゃとカムアにもたれかかり、ラアはそのまま、また眠ってしまった。
(今までずっと眠っていたのに)
 けれど、その間ずっと話をしていたというのだから、仕方がない。カムアは肩をすくめると、気持ちよさそうに眠るラアの横顔を映した。
 こんなことが、よくあった。南の森で会っていた頃だ。せっかく会える短い時間を、ラアはこうして眠って過ごしたのだ。
 カムアはそっとラアの頬に指を伸ばした。包帯で巻かれた彼の指はもう、その熱を知ることはできないが、ただ南の森でいつもしていたように、思わずそうしていたのだった。
 ラアはあの森の木陰でこう言った。カムアの手が好きだと。ひんやりとしたその手が、心地いいのだと。
 出会って一年も経っていないのに、なぜだかひどく懐かしい。
 ラアは、あの頃からまるで変わっていない。……いや、変わりはしたのだ、確かに変わった。けれど、カムアが見つめ、ずっと求めてきた彼は、むしろ今こそその姿を確かにしているようだ。曖昧にしていたものを、迷いを、省いてきた。覆いを剥ぎ取るように。
 なんと眩しい光だろう。カムアはそうして、うっとりと目を細めた。