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山颪(やまおろし)

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 目に痛いほどの照り返しが、雪の斜面を輝かせている。
 北海道雨竜郡――
 平地では雪解けが進んでいるものの、標高六〇〇メートルを超えるこのシラッケ山では、いまだ一メートルを超す積雪が残されている。
 金造は周囲の地形に細かく気を配りながら、斜面をのぼっていった。ここ数日の暖気で山肌には雪しわが発生しており、全層雪崩が起きる危険性もあった。
 雨竜川流域は、むかしからヒグマが多く生息する場所である。
 金造はアイヌの血を引く熊撃ちの名手だった。
 とくに穴熊猟を得意としており、三月初旬からほぼ一ヶ月かけて狩場の山々を踏破する。ヒグマは越冬のため山中で穴籠もりをするが、その穴の位置をあらかじめ把握しておき、春を待って狩るのである。
 雪庇からしきりにスノーボールが転がってくる。北海道のヒグマは北風を避け、陽の当たる南向き斜面に穴を掘ることが多い。まばゆい光を放つ雪面の下からは、沢をつたい流れる雪解け水のせせらぎが聞こえていた。
 一本の太いナラが、金造の目に飛び込んできた。直径五メートルはありそうなミズナラの大樹だ。まるで天をつかもうとするかのような特徴ある枝ぶりには、確かに見覚えがあった。
 ――見つけたぞ。
 金造は歩みを止め、ゆっくりと息をととのえた。愛用の村田銃を肩から降ろし、弾が込められているか確認する。軍からの払下げである彼の銃は、いつもピカピカに磨き込まれていた。
 その穴を見つけたのは、秋にエゾシカを追ってこの山へ踏み入ったときだった。あたりにはナラやクヌギが群生し、そこらじゅうでどんぐりが転がっていた。どんぐりはヒグマの好物だ。見れば穴の底には枝が敷きつめられ、その枝にびっしりとこわい金色の毛が絡みついていた。ヒグマの越冬穴であることに間違いなかった。よし、春になったら仕留めてやろう。そう思い、金造は周辺の詳細な地形を頭へたたき込んだのである。
 そして今、記憶したとおりの景色が眼前に広がっていた――
 まず風向きを確認した。暖気をはらんだ風は、山頂からゆるやかに吹き降ろしている。獲物は風下から追うのがハンターの常識だが、ヒグマに対して真下から近づくのは危険であった。金造はやや右へ迂回し、風向きに注意しながら徐々に穴へと近づいていった。
 冬眠といっても熟睡しているわけではない。低体温を維持しながらまどろんでいるだけだ。ヒグマはとても神経質な動物で、寝ている間もけっして警戒を怠らない。人間の気配を察知すればたちまち目を覚ましてしまう。本州のツキノワグマと違い冬眠中でも襲いかかってくることがあるため、不用意に穴のなかを覗くのは禁物であった。
 金造は長さが五メートルほどの枝を見つけてきて、それを穴のなかへそっと突き入れてみた。
 低い獣の唸り声がした。
 ――いた。
 銃床を肩に当てる。
 ヒグマのからだは脂肪が厚く、急所へ的確に命中させなければ致命傷を与えることはできない。村田銃は単発式の銃だ。もし初弾を外せば、次はこちらが襲われる番になる。金造の日焼けした顔に、緊張が走った。
 もう一度枝を突き入れる。
 がふっがふっがふっと荒い息をつきながら、ついにヒグマがその姿をあらわした。
 銃口が火を吹いた。
 轟然たる銃声が、ぱいいいんと周囲の山々にこだまする。
 雪面に血が飛んだ。
 ヒグマは十メートルほど斜面をすべり落ちたところで動きを止めた。
 すぐに腰の皮袋から新しい鉛玉を取り出し、銃に装填する。
 撃たれたヒグマは動かない。
 金造はじっとそれを見守った。
 ヒグマはおそろしく賢い生き物で、撃たれると死んだふりをすることがある。仕留めたと思って近づいたハンターが逆襲されるケースは後を絶たない。
 まず毛なみを逆立てていないか観察した。横たわるヒグマの体毛はしんなりと萎えていた。次に少し寄って前足の手のひらを確認する。爪が完全にひらいていた。見ると口からだらりと舌を垂らしている。そこで金造はようやく安堵し、ヒグマへ近づいていった。
 体長二メートル三〇センチの堂々たる雌グマだった。毛ヅヤも良い。冬眠中のヒグマから取った熊胆は高値で取引されるが、この大きさだと胆嚢のほうも期待できそうだ。金造は満足した。
 ふと、穴のなかから鳴き声がした。くんくんと子犬が親に甘えるような声だ。
 穴を覗いた金造の口から思わずため息が漏れた。
 子連れじゃったか……。
 有史以前よりアイヌたちは、ヒグマを神からの贈り物だとして大切に扱ってきた。けっして必要以上に狩ったりせず、また子連れの母グマは殺さないことを不文律としていた。そうやって彼らは、自然と共生しながら暮らしてきたのである。
 しかし金造のような穴熊猟師の場合そうはいかない。穴のなかに子がいるかは親グマを斃してみなければ分からないことだ。ヒグマは冬眠中に出産をする。金造はこれまで百頭近いヒグマを斃してきたが、撃ち殺してみれば子連れだったというのはよくあることだった。
 金造が手をさしのべると、子グマは指先を舐めた。ササ鳴きと呼ばれる、グルグルという甘えた声を出してくる。われ知らず目を細め、その子グマを抱き上げようとした……そのときだった。
 突然、周囲を雪けむりが覆った。
 一瞬にして天地の境目が消え、雪の壁がみるみる数メートルの高さまでせり上がってくる。
 しまった――。
 春先の雪崩は音もなく発生する。気づいたときにはすでに雪の下じきとなり命を落としている。大地が鳴動し足もとが揺らいだ。金造はとっさにヒグマの穴へ飛び込んでいた……。
 どれくらい経ったのか、暗闇のなか、ふと生ぬるいものに顔を舐められる感触でわれに返った。獣臭いにおいに息苦しさを感じつつも、ほっと胸をなでおろす。ヒグマの穴は、地中深く根を張った太いナラの下に掘られていたため、雪崩にも押し潰されずに済んだようだ。
 金造は急いで入り口を塞ぐ雪を掘った。春の湿り気をおびた雪は掻き出すのに苦労したが、それでもなんとか地上へ這い出すことができた。
 頽雪がなぎ払った斜面はことごとく木々が押し倒されていたが、先刻の魂をも揺るがすような地響きが嘘のように鎮まっていた。
 頭上では鳶が鳴いている。
 金造は周囲を見渡した。仕留めたヒグマは完全に雪に覆われ見えなくなってしまった。もう掘り出すことは不可能だろう。
「……命があっただけ、めっけもんだ」
 彼は子グマを背負うと、すぐに山を降りはじめた。
 冬眠中を襲われたヒグマは一瞬にして射殺された。自分も危うく雪崩に飲まれるところだった。生命をおびやかす脅威というのは、いつなん時やって来るか分からない。不意な脅威にさらされたとき、私たちはなぜこうまで無力なのか――
 木の香とともに、春のきざしを感じさせる山颪が頰をたたく。
 背負った子グマをゆすり上げた。ずっしりとした命の重みを感じる。
「ひとつ明日からは、こいつを育てることで老後の慰めとしようか」
 金造はこの日を最後に、熊撃ちの猟師を引退した。


 ※この物語はフィクションです。
作品名:山颪(やまおろし) 作家名:Joe le 卓司