⑨残念王子と闇のマル
紗那は麻酔の名前と量を確認すると、手早く注射した。
そして、相変わらず見事な手つきで縫合していく。
その隣で馨瑠が輸液を交換した。
シンと静まりかえった室内に、二人が施す処置の音が響き、誰もが祈るように空を見つめる。
「とりあえず、できることは全てしました。」
静かに、紗那が言葉を紡いだ。
「あとは、お父様の生命力によるわね。」
馨瑠が、小さく息を吐く。
「私たちは、隣の部屋で待機しています。何かあれば声をかけてください。」
紗那と馨瑠は聖華に頭を下げると、女王の私室を出て行った。
「我々も、いったん戻るか。」
銀河が太陽の肩をたたくと、太陽は頷きながら空の枕元に屈む。
「兄上!目を覚まさないと、今度こそ聖華、もらっちゃうよ!」
言いながら、空の肩に拳を突きつけた。
それでも蒼白な顔でぴくりとも動かず、酸素マスクの下で浅い呼吸を繰り返すだけの空に、太陽が悔しげに歯を食いしばる。
そんな太陽と空を見つめる聖華も、唇を噛みしめた。
「…二人に、してやろう。」
銀河は太陽を立たせると、肩を抱いて部屋を出て行く。
カレンは、楓月と視線を交わした。
楓月は理巧と麻流とも視線を交わすと、4人で聖華の傍に跪く。
「母上。」
楓月の声に、聖華はようやくこちらをふり向いた。
そして、ゆっくりとカレンの前に向き直る。
「カレン。」
初めて、『カレン王子』でなく、『カレン』と呼ばれた。
カレンが驚いて聖華を見上げると、聖華はゆっくりとカレンの手を握った。
「連れて帰ってきてくれて、本当にありがとう。」
潤んだ瞳で微笑む聖華の手を、カレンは握り返す。
「ソラ様は、眠られる前、女王様の名前を呼ばれていました。きっと今も…。」
聖華は悲しげに笑みを深めると、懐から小さな紙切れを取り出した。
無言で差し出されたその紙を、カレンはためらいながら受け取る。
『もうすぐ帰る。早く会いたい。』
走り書きだけれど、その愛情あふれる内容にカレンの両瞳から涙がこぼれ落ちた。
これは確かに、空が千針山で風に託した手紙だ。
なにか重要なつなぎなのかと思っていたら、聖華への愛の言葉だったと知り、空の気持ちを想像するとカレンはたまらなかった。
空は、どうしても帰りたかったのだ。
だから、あの厳しい状況の中でも意識を保ち、救助を待っていた。
「あの時、あなたが危険も顧みず、すぐに戻る決断をしてくれたから、空は生きたままこうやって帰って来れた。」
聖華の碧眼から、堰を切ったように涙がこぼれ落ちる。
「本当に、感謝してもしきれない…。私たちは、あなたにあんなに酷いことをしたのに…」
こんなに取り乱す女王を、カレンは想像もしていなかった。
それだけ空が大事な存在なのだと、痛いほど伝わってくる。
カレンは首をふると、聖華の手の甲に口づけた。
「ソラ様こそ、命懸けで僕を守ってくださり、女王様はそれを許してくださった。今回のことは、それに対してのご恩返しのひとつです。」
カレンは長い前髪をさらりと揺すって、華やかに頬笑む。
「僕とソラ様は、同じだと思います。」
その艶やかな視線を麻流に流し、カレンはその黒髪をそっと撫でた。
「愛する人から、離れたくない。何があっても、必ず戻ってみせる。…たとえ死の淵にあっても、死神を斬り捨ててでも還ってくる。」
カレンはもう一度聖華を見つめると、悪戯な笑顔を向ける。
「ソラ様は最強の忍だから、僕より勝率高いはずです。」
聖華は両手で顔を覆うと、嗚咽した。
何度も何度も頷きながら、体をふるわせて泣くその姿は、ただの女性だった。
麻流は初めて見る母の姿に戸惑いながらも、心のどこかでホッとする。
小柄な体で母をそっと抱きしめると、母がすがるように抱きしめ返してきた。
そんな二人を、楓月が理巧と一緒に母娘を包み込むように抱きしめる。
4人で身を寄せ合う家族を見つめ、カレンは多少の寂しさを覚えながらも幸福に満たされた。
(きっと、大丈夫。)
空の手紙と、4人の姿を見つめながら、カレンは確信する。
(この人たちを、ソラ様がこんなかたちで置いて逝くはずがない。)
カレンは鋭い眼差しで、空の眠るベッドの窓越しに見える夜空を見た。
すると、そこには三日月がくっきりと浮かんでいる。
「ソラ様の三日月が、早くもう一度見たい。」
ポツリと呟くと、聖華達も顔を上げて夜空を見上げた。
「空…。早く目を覚まして…!」
聖華は空の首筋に顔を埋めると、再び嗚咽し始める。
カレンは麻流の肩を抱いて、楓月達と寝室を出た。
作品名:⑨残念王子と闇のマル 作家名:しずか