月の無い夜に
若者はベッドの上で目覚め、覚えの無いそのベッドの上で、首を傾げた。
全く,覚えていない。
「あら、目が覚めたのね」
聞いた事のない声がした。若い娘のようだった。
首を回してみると、美しい娘の姿が目に映った。…とても美しい娘だが、勿論、彼の記憶には無かった。これほど美しい娘を一度でも見ていたら、忘れる事などないだろう。
「僕は一体…」
「覚えてないの? 村の外れで倒れていたのよ」
娘は上品な仕草で首を傾げた。月のように美しい娘だった。
なんて美しい人なのかと、若者は娘を眺めた。娘は、とても、甘い香りがする。
「私はミイメ。あなたは?」
問われて若者は驚いた。自分の名前が何だったのか、それさえも思い出せなくなっていた。
「…僕は…どうなっているんだろう…。わからない…!」
若者は、恐怖を覚えた。何も覚えていない自分の事が、恐ろしくなった。
心臓が早く脈打ち、身体が震え始めた。
「ああ、無理に思い出さなくていいの。まだ休んだ方がいいわ。シチューを持ってくるから、それを飲んだらもう少しお眠りなさいな」
娘が持って来てくれたシチューは、何やら異様に臭かった。
一口すすってみたが、異臭に耐えられず、若者は吐き出してしまった。
「ああ、すいません…」
「気にしなくていいのよ。何か食べた方がいいのだけど…無理なら仕方ないわ。とにかく、ゆっくりお休みなさいな。シチューは置いていくから、食べられそうなら食べてね」
娘に言われるまま,若者は横になり、目を閉じた。
自分は誰なのだろう? どうして倒れていたのだろう?
思い出そうとしても、やはり思い出せず、とてもお腹がすいているのに気づいたが、シチューを食べようとは思えなかった。
昼の間は身体がだるく具合が悪い。まともに起きている事もできないし、食事も全く食べられないまま数日が過ぎた。記憶は戻らず、食事も食べられない自分に若者は怯えていた。
特に,夜が怖かった。
月夜の晩に、娘は若者を誘って、散歩に行こうと誘ってくるようになった。
見知らぬ人間の自分の世話を甲斐甲斐しく焼いてくれる娘の放つ甘い香りが強くなる…。
うさんくさい自分をいたわり、優しい言葉をかけてくれる娘を、若者は愛すようになっていった。
娘と言葉を交わすときの衝動に、若者は気づいてしまった。
記憶があるわけではない。
なのに、自分は異形の物だと気づいてしまった。
香しき香りは血の匂い。
その血を欲して喉が熱い。
若者は、その日のうちに娘の厚意を辞した。
月の出てない夜の闇にまぎれ、若者は姿を消した。
村から少し離れた森の中、空を見上げて目を閉じた。
月の出ている夜では辛すぎる。娘の事を思い出すから。
貴女に届かない想いを内に秘めて。
月の無い夜に消えてしまおう。
明日の朝には太陽が出る。そのまま僕は灰になろう。
貴女に気づかれないうちに。
月を恋しく思いながら…。