泡沫
第一章 〈春〉
すべての青が透明に冴え渡った。しーんと冷える空気の中に、何か暖かいものが吹き付けてきた。春が来たのだ。俺の心に、何かが浮かんで、消えた。
俺は今年から高校2年になる。もうだいぶ高校生活にも慣れてきた。勉強も苦手じゃない。運動もそこそこか。だから成績も悪くはない。ただ……。
「おお、啓じゃねーか。春休みぶりー。」
後ろから大声で叫んでやってくるのは、大木渉(わたる)。高校1年の頃からの友人だが、声が馬鹿みたいにでかい。ちなみに俺は佐藤啓(けい)という。苗字がいたって普通ということで、みんなからは下の名前で呼ばれている。もっとも、そんなに友達はいないけど。
「声でけーよ。周りの人引いてんだろーが。」
わりいわりいと謝る渉は全然悪びれる様子もない。こんなやり取りなんて日常茶飯事だし、俺も何も気にしてない。もはや挨拶のようなものだ。
「学校また始まるよ。めんどくせー。」
この声もでかいが俺はもう慣れたもので、むしろ登校中の他の生徒たちがこっちをみて笑っている。
「新入生も入ってくるしなー。あの清々しさはどこへいったのやら。」
「どっかに消えたよそんなの。まあ、もしかしたら消えたように思ってるだけなのかもしれないけどな。」
なんだよその意味不明な発言は、と笑いながら俺は言ったが、本当は心のどこかで引っかかる。
学校に着くと新しいクラスが掲示してある。俺と渉は同じクラスだった。まあそれもそのはず、俺たちのいるのは進学コースで、このコースは4クラスしかない。しかも、2年から文系と理系に分かれる。文系理系ともに2クラスずつの配分。俺も渉も理系に進むつもりだったから、もうその時点で同じになる確率は50パーセント。そしてさらに成績で振り分けられ、上位のクラスに入ることが確定している俺と渉だから、同じクラスになる確率は100パーセント。最初から分かっていた。
「だよな。」
渉がそう言った。
「だよな。」
俺もそう答えた。それだけで意志疎通は十分だった。
俺の通っている高校は、地方の自称進学校とかいうもので、生徒数もそんなに多いというわけではない。俺の地元の高校だから、小さい頃から知っていた。山に囲まれた、特にこれといった特色もない学校だ。いや、学校に特色がないというより、地元に特色がない。駅も寂れているし、大きなデパートがあるわけでもない。典型的な田舎だ。よく言えば自然が豊かである。世の中の喧騒からは遠い世界であった。
新しいクラスに入り、自分の席がどこか探す。ラッキー。真ん中の列の1番後ろ!対して渉は俺と同じ列の1番前。つまり教卓の真ん前。恨めしそうにこっちをみてくる渉の顔が面白くて、俺は噴き出しそうになる。クラスの人たちはどこかで見かけた人もいるし、初めてみるような人もいくらかいた。もちろん渉のように1年の頃同じクラスだった人もちらほら。
「お、啓もこのクラスだな。また一緒に頑張ろうぜ。」
そう言ったのは貴公子とか呼ばれているイケメン、藤宮光輝だ。こいつも同じクラスか。イケメンで頭がいい。憧れと嫉妬の対象だ。というか、名前からしてそうなるべくして育ったとしか思えない。
「やった!藤宮くんと同じクラスだ。」
仲良し女子集団がひそひそと小声で喜びを分かち合っている。
「文系にしなかったのか?藤宮。」
と、俺は聞いた。
「なんで?」
藤宮はきょとんとしている。たしかにこいつは文系とか理系とかに執着しない。でもそういう問題じゃない。
「いやさ、いっちゃあなんだけど、文系の方が可愛い女子多いんじゃない?藤宮だってできれば可愛い子にモテたいでしょ?」
ほぼ、というか完全に嫉妬だ。すると藤宮は、
「えー、なにそれ?なら啓だってどうして理系にしたんだよ?」
カチン。俺だってモテるのなら自信をもって文系にしてるわ!お前とは顔面偏差値が違いすぎるの、分かる?……全部飲み込んだ。代わりにひきつった笑みで、
「相変わらず鈍感だな。」
と返しておいた。そう、藤宮はモテるが、残念すぎるくらいに鈍感だ。
藤宮が去った後も相変わらず膨れっ面をしている俺の横でクスクスと笑い声が聞こえる。振り向くと、見たことのない女の子だ。色の白い、すらりとした手足。さらさらとした長い黒髪。触れると消えてしまいそうな、そんな存在。余程おかしかったのだろうか、ずっとその小ぶりな肩をゆすって笑っている。俺が訝しげに見ているのにようやく気づいたようで、
「ごめんね。初対面の人に、失礼だよね。」
と言った。その声があまりにも澄んでいて、あまりにも儚くて、俺ははっとした。
「いや、大丈夫。そんなにおかしかった?」
どもりながらおずおずと尋ねてみる。
「ずっと顔膨らましてたから。あ、嫉妬してるなーって思うとね、なんだかおかしくて。」
一気に顔が赤くなるのを感じた。全部見透かされている。しかも隣の女の子に!
「ああ、図星だー。顔真っ赤ー。」
そうしてきゃっきゃと笑う。この子にはそういうお転婆なところがあるらしい。
「これ以上はやめてくれ。恥ずかしいから。」
慌てて彼女を止める。彼女はいじわるそうな顔で、
「ていうか、理系の女の子はそんなにだめかなー?それより、君が理系にきた理由、女子にとってはなかなかに刺さるよ。」
と痛恨の一撃をくらわす。でもたしかに言われてみれば、俺が理系にした理由はゲスい。文系も理系もどっちも嫌いじゃない。将来性とか何とかテキトーにかこつけて理系にした。もちろんそんなのがうわべだけの理由なのは今さら言うまでもない。正直言って、文系の男女に華やかさを勝手に想定して、一人で臆していたのだ。俺はそこまで自分の容姿に自信がない。よって理系。どんな偏見だよと今さらながらに思う。
「だよね。そうだよね。……ごめん。」
すっかり消沈している俺をみて、彼女は目を細める。許しているのかいないのか、ちょっと分からない。そうだ、まだ大事なことを聞いていなかった。
「ええっと、君は……。」
あ、そうだったね、と、彼女は言って、
「わたしは清水青花。」
きれいな名前だ。そう直感的に思った。
「清水さんね。俺は佐藤啓。」
「佐藤くんね。よろしく。で、さっきはごめんね。そんなに本気で落ち込まないで。」
そう言って上目遣いに俺を見る。その瞳に俺はどう映っているのだろう。吸い込まれそうだ。
今日は始業日だから学校も午前中で終わり。俺も渉も部活には入っていない。帰宅部だ。
「なあ、昼飯でも食べに行こーぜ。」
俺は渉に誘われて、学校近くのラーメン屋に行く。高校1年の頃から渉とよく行くようになったラーメン屋で、今ではすっかり常連扱いだ。店はぼろいけど味は美味い。
「おばちゃん、いつものね。」
「はいはい。わかってるけど、あんたたち食券くらいは持ってきなさいよ。」
「まあまあいいじゃないのー。」
いつもの風景だ。おばちゃんもこれが挨拶だと思っているらしい。券売機は入り口のすぐそばにあるけど、この店に懇意になってからは使わなくなった。
ラーメンが出来上がるのを待っている間に、渉が質問してきた。
「おまえの隣にいた子、知ってる?」
そのときふと、あの透き通るような声が反響してくるように思えた。
すべての青が透明に冴え渡った。しーんと冷える空気の中に、何か暖かいものが吹き付けてきた。春が来たのだ。俺の心に、何かが浮かんで、消えた。
俺は今年から高校2年になる。もうだいぶ高校生活にも慣れてきた。勉強も苦手じゃない。運動もそこそこか。だから成績も悪くはない。ただ……。
「おお、啓じゃねーか。春休みぶりー。」
後ろから大声で叫んでやってくるのは、大木渉(わたる)。高校1年の頃からの友人だが、声が馬鹿みたいにでかい。ちなみに俺は佐藤啓(けい)という。苗字がいたって普通ということで、みんなからは下の名前で呼ばれている。もっとも、そんなに友達はいないけど。
「声でけーよ。周りの人引いてんだろーが。」
わりいわりいと謝る渉は全然悪びれる様子もない。こんなやり取りなんて日常茶飯事だし、俺も何も気にしてない。もはや挨拶のようなものだ。
「学校また始まるよ。めんどくせー。」
この声もでかいが俺はもう慣れたもので、むしろ登校中の他の生徒たちがこっちをみて笑っている。
「新入生も入ってくるしなー。あの清々しさはどこへいったのやら。」
「どっかに消えたよそんなの。まあ、もしかしたら消えたように思ってるだけなのかもしれないけどな。」
なんだよその意味不明な発言は、と笑いながら俺は言ったが、本当は心のどこかで引っかかる。
学校に着くと新しいクラスが掲示してある。俺と渉は同じクラスだった。まあそれもそのはず、俺たちのいるのは進学コースで、このコースは4クラスしかない。しかも、2年から文系と理系に分かれる。文系理系ともに2クラスずつの配分。俺も渉も理系に進むつもりだったから、もうその時点で同じになる確率は50パーセント。そしてさらに成績で振り分けられ、上位のクラスに入ることが確定している俺と渉だから、同じクラスになる確率は100パーセント。最初から分かっていた。
「だよな。」
渉がそう言った。
「だよな。」
俺もそう答えた。それだけで意志疎通は十分だった。
俺の通っている高校は、地方の自称進学校とかいうもので、生徒数もそんなに多いというわけではない。俺の地元の高校だから、小さい頃から知っていた。山に囲まれた、特にこれといった特色もない学校だ。いや、学校に特色がないというより、地元に特色がない。駅も寂れているし、大きなデパートがあるわけでもない。典型的な田舎だ。よく言えば自然が豊かである。世の中の喧騒からは遠い世界であった。
新しいクラスに入り、自分の席がどこか探す。ラッキー。真ん中の列の1番後ろ!対して渉は俺と同じ列の1番前。つまり教卓の真ん前。恨めしそうにこっちをみてくる渉の顔が面白くて、俺は噴き出しそうになる。クラスの人たちはどこかで見かけた人もいるし、初めてみるような人もいくらかいた。もちろん渉のように1年の頃同じクラスだった人もちらほら。
「お、啓もこのクラスだな。また一緒に頑張ろうぜ。」
そう言ったのは貴公子とか呼ばれているイケメン、藤宮光輝だ。こいつも同じクラスか。イケメンで頭がいい。憧れと嫉妬の対象だ。というか、名前からしてそうなるべくして育ったとしか思えない。
「やった!藤宮くんと同じクラスだ。」
仲良し女子集団がひそひそと小声で喜びを分かち合っている。
「文系にしなかったのか?藤宮。」
と、俺は聞いた。
「なんで?」
藤宮はきょとんとしている。たしかにこいつは文系とか理系とかに執着しない。でもそういう問題じゃない。
「いやさ、いっちゃあなんだけど、文系の方が可愛い女子多いんじゃない?藤宮だってできれば可愛い子にモテたいでしょ?」
ほぼ、というか完全に嫉妬だ。すると藤宮は、
「えー、なにそれ?なら啓だってどうして理系にしたんだよ?」
カチン。俺だってモテるのなら自信をもって文系にしてるわ!お前とは顔面偏差値が違いすぎるの、分かる?……全部飲み込んだ。代わりにひきつった笑みで、
「相変わらず鈍感だな。」
と返しておいた。そう、藤宮はモテるが、残念すぎるくらいに鈍感だ。
藤宮が去った後も相変わらず膨れっ面をしている俺の横でクスクスと笑い声が聞こえる。振り向くと、見たことのない女の子だ。色の白い、すらりとした手足。さらさらとした長い黒髪。触れると消えてしまいそうな、そんな存在。余程おかしかったのだろうか、ずっとその小ぶりな肩をゆすって笑っている。俺が訝しげに見ているのにようやく気づいたようで、
「ごめんね。初対面の人に、失礼だよね。」
と言った。その声があまりにも澄んでいて、あまりにも儚くて、俺ははっとした。
「いや、大丈夫。そんなにおかしかった?」
どもりながらおずおずと尋ねてみる。
「ずっと顔膨らましてたから。あ、嫉妬してるなーって思うとね、なんだかおかしくて。」
一気に顔が赤くなるのを感じた。全部見透かされている。しかも隣の女の子に!
「ああ、図星だー。顔真っ赤ー。」
そうしてきゃっきゃと笑う。この子にはそういうお転婆なところがあるらしい。
「これ以上はやめてくれ。恥ずかしいから。」
慌てて彼女を止める。彼女はいじわるそうな顔で、
「ていうか、理系の女の子はそんなにだめかなー?それより、君が理系にきた理由、女子にとってはなかなかに刺さるよ。」
と痛恨の一撃をくらわす。でもたしかに言われてみれば、俺が理系にした理由はゲスい。文系も理系もどっちも嫌いじゃない。将来性とか何とかテキトーにかこつけて理系にした。もちろんそんなのがうわべだけの理由なのは今さら言うまでもない。正直言って、文系の男女に華やかさを勝手に想定して、一人で臆していたのだ。俺はそこまで自分の容姿に自信がない。よって理系。どんな偏見だよと今さらながらに思う。
「だよね。そうだよね。……ごめん。」
すっかり消沈している俺をみて、彼女は目を細める。許しているのかいないのか、ちょっと分からない。そうだ、まだ大事なことを聞いていなかった。
「ええっと、君は……。」
あ、そうだったね、と、彼女は言って、
「わたしは清水青花。」
きれいな名前だ。そう直感的に思った。
「清水さんね。俺は佐藤啓。」
「佐藤くんね。よろしく。で、さっきはごめんね。そんなに本気で落ち込まないで。」
そう言って上目遣いに俺を見る。その瞳に俺はどう映っているのだろう。吸い込まれそうだ。
今日は始業日だから学校も午前中で終わり。俺も渉も部活には入っていない。帰宅部だ。
「なあ、昼飯でも食べに行こーぜ。」
俺は渉に誘われて、学校近くのラーメン屋に行く。高校1年の頃から渉とよく行くようになったラーメン屋で、今ではすっかり常連扱いだ。店はぼろいけど味は美味い。
「おばちゃん、いつものね。」
「はいはい。わかってるけど、あんたたち食券くらいは持ってきなさいよ。」
「まあまあいいじゃないのー。」
いつもの風景だ。おばちゃんもこれが挨拶だと思っているらしい。券売機は入り口のすぐそばにあるけど、この店に懇意になってからは使わなくなった。
ラーメンが出来上がるのを待っている間に、渉が質問してきた。
「おまえの隣にいた子、知ってる?」
そのときふと、あの透き通るような声が反響してくるように思えた。