難破船
陽子はレースのカーテンを開いてポツリとつぶやいた。
男はそのつぶやきを右から左へと聞き流していた。
陽子がその後に続く言葉を飲み込んだのに気付くこともなく。
「ああ、夜になるともっと綺麗だよ」
「100万ドルの夜景ね?」
「そうだな」
陽子は確信していた。
この男はその夜景をここから見たことがある……自分ではない誰かと一緒に。
「ボタンが外れてるよ」
窓の外の景色を心に刻み込もうとしている陽子の後ろに立ち、ブラウスの背中のボタンをかけてくれる。
「ありがと」
陽子は言った。
ほんの数ヶ月前までなら、この男はブラウスのボタンをかけてくれたりはしなかっただろう……迷わずに外したはずだ。
男はボタンをかけると後ろから陽子を抱きしめる。
でも、陽子にはわかっていた。
その腕には、以前のような情熱はもうこもっていない。
あるとすれば、この三年間自分だけのものだった陽子の体にかすかに残る未練か……あと一回名残を惜しめばそれも綺麗に消えてしまうのだろう……。
それでも陽子は男の腕を拒めない。
この男の気持ちがもう自分には残っていないことはわかっているのに。
この窓から一緒に港の夜景を眺めた女性(ひと)、この男はもう彼女のもの……。
この小旅行に誘われた時、これが最後になるんだと直感した。
男は、これまで自分だけのものであった陽子を最後にもう一度だけ抱き、かすかに残る未練を綺麗さっぱりと捨て去る気なのだと。
それがわかっていながら陽子は誘いに応じた。
これが最後になってもいい、それでももう一度、一度だけでも抱かれたかったから……。
陽子は『恋多き女』と噂される。
事実、何人もの男と激しい恋をして、その度に悲痛な別れを繰り返して来た。
陽子は人生と言う名の海を悠々と航海して来た訳ではない。
荒波に揉まれて沈みかけては、その都度灯台の光を見つけてはそれにすがるようにして海を渡って来たのだ。
しかし、その苦しい航海は終わり、穏やかな日々が待っていると思っていた。
ほんの数ヶ月前までは……。
「やめて……」
そう口にすることが、陽子の精一杯の抵抗。
しかし、男の腕に力がこもると、陽子はその腕の中に落ちて行った……。
陽子はベッドに横たわり、男がふかす煙草の先の赤い火を眺めていた。
いつになく神妙な男の表情。
その煙草を吸い尽くした時、別れ話を切り出すつもりなのだ。
陽子は裸のままベッドから降り、ワインとグラスを窓際の小さなテーブルに置いた。
「陽子……話があるんだ」
「何も言わないで……もう、わかってるわ……」
「すまない……」
「別れの乾杯……それくらいはいいでしょ?」
「あ、ああ……」
「今日までありがとう……」
「え?」
「あなたと一緒だったこの三年、楽しかったわ、夢を見ていたみたいに……」
「……」
陽子は男がグラスを一気に空けるのをじっと見つめていた。
「綺麗ね……夜景」
「そうだな」
「最後の時を迎えるのにふさわしい場所ね、私にとっても、あなたにとっても」
「陽子……お前……」
「効いてきたかしら……」
「ワインに……何を入れた?」
「毒よ……私の最後の愛……」
「……体が……痺れる……」
「許して……あなたを誰にも盗られたくなかったの……」
陽子もグラスを一気に空けた。
「よ……陽子……」
男が床に倒れ伏すと、陽子はそっとその体に寄り添った。
「私も体が痺れて来たわ……最後まで一緒に夢を見させて……夢を……夢を夢のままに終わらせるにはこうするしかなかったの……」
二つの鼓動が重なり、そして寄り添うように消えて行った……。
(FIM)