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月飼いたちの夕凪

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窓辺に置いた水槽に月を捕らえる。昔、そんな歌があった。
 誰が歌っていたのか、どんな歌詞で、どんな曲調だったか、ほとんど覚えていない。彼女が好きな曲だったのに。
 僕は淋しくなった。彼女にまつわることを忘れてしまったから、ではない。忘れてしまったことを淋しいと思えなかったことを、淋しいと感じた。遠くにぽっかり浮かぶ欠落を、眺めているような心地だった。
 宙に彷徨わせていた視線を、時計塔に向ける。五時三十分。いや、二十九分か。待ち合わせは五時のはずだった。そろそろ連絡を入れるべきだ。なのに、なぜかそうはしなかった。
 長針が動く。五時三十分。公園の中に放送が流れる。海浜公園だからか、鳴り響くのは『浜辺の歌』だった。
 歌が終わる頃、遠くから駆け寄ってくる細い姿が目に留まった。瞳美さん、だった。
「ごめんなさい、晋也くん。遅れてしまって」
「そんな、謝らないでください。瞳美さん、仕事で忙しいのに。いつも急に声をかけてしまって」
「今はあなたの方が忙しいでしょう。それに、今日は仕事で遅れたんじゃ、ないの。夫の、月命日、で――」
 ――忘れていて。そう瞳美さんは、消えそうな声で呟いた。実際、独り言だったのかもしれない。その言葉を、僕は聞き流すことにした。
 忘れていたのは、僕との約束なのか。それとも。
 どちらにしても、やりきれなくなるだけだ。
 お互い、会話を続けられず、僕は瞳美さんから目をそらした。徐々に藍色に染まっていく空を眺めてみたけれど、その遠くにぽっかり浮かぶ半月すら真っ直ぐに見られない。瞳を、心を、どこにも定めることができなかった。
「あ」
 その星を見つけたとき、僕の口から間抜けな音が飛び出した。
 その声に瞳美さんもつられて顔を空に向ける。なぜだろう、僕は、きっと彼女も同じ星を見つけるだろうと思った。
 果たして、「宵の明星ですね」と彼女は言った。
「明るいですよね。ええと、星の名前、なんでしたっけ?」
 本当は知っていたけれど、言葉を交わせるのが嬉しくて、僕はとぼけて尋ねた。
「宵の明星は金星ですよ、もう、知らないんですか」
 苦笑ながらも瞳美さんはやっと笑ってくれた。
 僕に呆れて、というよりも、僕が知らないふりをしていることを知っていて、そのことを知らないふりしている自分に呆れている、といった笑顔だった。そんな笑顔を見ていたら、なんだか可笑しくなって、気づくと僕も笑っていた。
「本当に明るいなあ、もしかしたら月より明るいかも」
「今日の月は半分ですから、あり得るかもしれません」
「ずっと眺めてたいな」
「宵の明星は、すぐ沈んじゃうんですよ」
 それは本当に知らなかった。彼女の顔が少し俯く。
「じゃあ、今のうちにたっぷり見ましょう。あっちに展望台があるんですよ。ほら、行きますよ、早く早く!」
 明るい声を出して、僕は彼女の手を取った。
作品名:月飼いたちの夕凪 作家名:ひいろ