猫の叫びは届かない
自分でもビックリした。
どうせフラれるってわかってたんだ。だから、その時が来たら、絶対にキレイに別れてやろうって。
なのに私は今、彼の服を掴んで、それを離せないでいる。
「なんだよ?」
彼の顔を見ることが出来ずに、うつむいたままの私に、彼の声が降ってきた。
同じ口から出ている言葉なのに、こんなにいつもと響きが違って聞こえるんだね。
私の大好きだった、はにかんだ笑顔で言う「なんだよ?」とは、全然違ってて。
それを言った彼の気持ちも、聞いた私の気持ちも、あの時とは違うから、だから、違う響きに聞こえるのかなって、なんとなく思った。きっと、それには、どっちにも責任があるんだってことに。
……そう思いたかった。
彼の大きなため息が聞こえた。
その風が私のポッカリと空いたココロに重く吹きかかった。
私の手なんて簡単に払いのけることが出来るはずなのに。
それが出来ないでいる彼は……今、なにを思っているんだろう?
『人の気持ちなんてわからない』って口癖のように言ってたよね。
『わからないから諦めるんじゃなくて、だからこそ、知りたいって思う気持ちが大切なんだ』って。
彼は私のことを『知りたい』って思ってたんだろうか。
たとえそうだとしても、今は『もう知りたいとは思わない』んだろうな……。
私には、いつまで経っても彼の気持ちがわからなかった。
今でも……そう。
ただわかってるのは、私がこの手を離すことを待ってるってことだけ。
ふと、ビジョンが浮かんだ。
なにかのテレビで見たような風景。
小学校の帰り道に、箱に入った子猫を見つけた男のコ。
「かわいい」と言って猫を持ち上げて、ジッと猫の大きな瞳を見つめる。
「ナァ」って……まだ子供だから「ニャア」って鳴けない子猫が声も漏らすと、その男のコは喜んで頬擦りしたりして。
しばらくそうやって遊んでるんだけど、やがて名残惜しそうに男のコは子猫を箱に戻す。
「ごめんね。ママがペットは飼っちゃダメって言うんだ」
「ナァ」
「いい人に見つけてもらうんだよ」
「ナァ」
そうやって、男のコは去っていく。
子猫は男のコを見つめたまま、ただそれだけが、自分の感情表現かのように、また一言。
「ナァ」と鳴いた……。
どーして、こんな風景が頭に浮かんだんだんだろう……。
ぼんやりと顔を上げると……ジッと私を見つめていた彼と目が合った。
……あ、そっか。
私はこの猫なんだ。
この人にはわからないんだ。
猫がそれまでどんなに孤独で、どんなに長い間、この男のコを待っていたかも知らないんだ。
やっと出会えたのに。
ずっと、その笑顔を待ってたんだよ。
「待ってよ」
「行かないで」
「一人にしないで」
「冗談だよね?」
「ホントにこれで終わりなの?」
「笑ってよ」
「そんな悲しそうな顔しないで」
「ずっと一緒にいたいよ」
「また会ってくれるよね」
「好き」
「……大好きだから」
猫がいくら叫んでも、男のコには届かない。
男のコには、猫の言葉がわからないから。
猫の言葉を『知ろう』としてないから。
知る必要がないから。
たとえ、猫の言葉がわかったとしても、『家でペットが飼えない』ってことは、決定事項で。
猫が何を言っても、それだけは変えられないから。
……だから猫は、男のコが去っていくのを、見つめることしかできない。
そこまで考えて、掴んでいた指先の力が……なくなって。
彼の服の袖が、フワリと元の姿を取り戻した。
彼は軽く体を振って、服のズレを整えた。
「じゃあな」
かすれた声でそう言って、彼は歩き出した。
あっさりと。
かける言葉を失って、私はただ後ろ姿を見送ることしかできなかった。
私は動けなかった。
男のコの後ろ姿を見送りながら、猫は何を思っていたのか?
その時の私にはよくわかった。
待っていたんだ。
少年が走って戻ってくるのを。
息を切らして戻ってきて、
「ごめん!」
って言うのを待ってるんだ。
もう一度、抱き上げてくれるのを待ってるんだ。
だから、ずっと去っていく少年の姿を見ていたんだ。
自分の視界から消えてしまっても、なお……。
動けなかった。
動いてしまったら、彼が戻ってきた時に私を見失う気がして。
動けなかった。
そんなことあるわけないって、わかってるのに、でも、それでも期待している自分を捨てることが出来なかったから。
動けなかった。
初めて涙がこぼれた。
いくら鳴いても、男のコが戻ってくるはずもないのに。
猫の叫びは届かないのに。
私は泣くことしか出来なかった……。
「ナァ……」