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あの日の君(掌編集~今月のイラスト~)

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「え?……幸江?……」
 その少女を見かけた時、三十五年余りも前の情景がフラッシュバックの様に脳裏に浮かび、思わず声に出してその名を呼んでしまった。
 かつて愛していた、そして結ばれることのなかった女性の名前を。

 現実の少女は怪訝そうな顔をして小首を傾け、そして言った。

「母をご存知なんですか?」

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

 三十五年前の情景、それは幸江と最後に逢った日のことだ。
 今日と同じように花火大会が催され、大学四年生だった俺は彼女と一緒に出かけ、その帰り道に東京で就職する事を告げた、幸江はそれを予想していたのか、特に寂しそうにするまでもなく、どこか諦めたような表情を浮かべた。

 俺が通っていたのは一通り名を知られた、しかし、超一流とまでは言えない大学、今の会社に就職できたのはゼミの先輩がたまたま人事部にいて引き立ててくれたからのこと。
 実際就職してみると超一流大卒の同期には能力の差を感じずにはいられない、その中で俺が互角に戦って行くには人一倍頑張らなければならなかった。
 俺は盆や正月にも帰省せずにがむしゃらに働いた。
 幸江が結婚した事を知ったのは入社から三年経った時のこと。
 もちろんショックだった。
 俺がこの三年がむしゃらに頑張れたのは、早く一人前になって幸江を東京に呼び寄せたい、その想いがあったからだ……しかし、あの花火大会の日、俺は幸江にそれをちゃんと告げなかった、いや、あの日ばかりではない……幸江が好きだ、いつか一緒になって欲しいという気持ちを一度もちゃんと伝えていなかった、心の中で(わかってくれているはずだ)と勝手に思い込んでいただけのことだったのだ……。
 もっとも、そう考えるようになったのは一年ほど経ってからで、その時は(何で待っていてくれなかったんだ)と思うばかりで、その悔しさを忘れるために、俺は一層がむしゃらに働いた。
 
 俺が結婚したのはその五年後、俺の会社では係長になるのは三十代半ばから四十位までの間、そろそろ昇進レースと言う雰囲気も顕著になって来ていて、既婚の方が有利と言う風潮があり、また内助の功も必要、そう考えたことも否定はできない。
 そして彼女は『職場の華』と呼ばれるにふさわしい美貌を備えていながら家庭的な考え方もしっかり持っている、いわゆる『お嫁さん候補NO.1』、彼女を射止めようとする男は何人もいて、その中には昇進レースのライバルも含まれていた。
 俺は昇進レースと同じような情熱を傾け、ついに彼女を獲得することに成功し、その後の昇進レースにも勝利し続けた。


 ……しかし、それから二十七年後、一人娘が結婚した途端に妻から離婚を申し込まれた。
 理由は『家庭を顧みてくれなかったから』
 もちろん、俺は反論した、妻子のためにずっと頑張って来たじゃないか、そりゃぁ付き合いの酒は飲むし、接待のゴルフにも行く、しかし、ギャンブル癖があるわけでなし、他に女を作ったということもない、三十代でマイホームも建てたし、娘は小学校から私立に通わせて大学も卒業させた、何一つ不自由はさせていないはずだ、と。
 しかし……。
『それは全部あなたの自己満足のためだったのではなかったの?』
 と言われた時、俺の心は満足に反論できなかった、その通りだったかも知れない、と気がついてしまったから……。

 協議の結果、俺は妻の言い分を認め、財産を折半して離婚に応じた。
 マイホームも売却して、今は会社に近い賃貸マンションに一人住まい、都会では男やもめの一人暮らしでもそう困ることもない、収入なら十分あるのだから……しかし、味気ない事も確かだ。
 五年前に課長まで昇進したが、部長の座は見えてこない、と言うより遥かに遠い……昇進と言う目標も霞んでしまった。
 そして、気がついてみれば腹を割って話せる友人すらいない。
 結局、俺は会社と言う狭い井戸の中で、より早く、より高いところにまでよじ登ることばかり考えて、井戸の外の事は何も見えていなかったのだ。

 傷心と言うより放心、そんな俺の足が向いたのは故郷の町、実家で休暇を過ごしていても悶々とするばかりの俺に、母は花火見物を勧めてくれた。
 花火大会……俺はふと幸江との事を思い出したが、少しは気晴らしになるかと思い出かけて来た。
 だが、突然の雨で花火は中止になり、帰る道すがらは幸江との思い出に囚われていた。
 少女にでくわしたのはその矢先の事だったのだ。


▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽


「母をご存知なんですか?」

 遠くから聞こえてくるような声に、俺ははっと現実に戻った。
「あ……うん、ちょっとね、高校で同級生だったんだ」
「ああ、そうなんですか、私、よく母の若い頃に生き写しだと言われます」
「お母さんはお元気?」
「母は……三年前に亡くなりました」

 一瞬、世界がぐにゃりと曲がったように感じた。

「ど、どうして? まだ五十代……」
「はい、五十四歳でした、乳がんの発見が遅れて転移してしまっていて……」
「そう……それは残念だったね……」
「ええ……」
「お幸せだった?」
「そうですね……父は平凡ですけど家族思いの優しい人ですから……母は父と結婚して良かったと……」
「そう……」

 少女は俺の目をしっかり見据えた……何かを探るかのように。
 そして続けた。

「でも、母には若い頃、想っている人が居たそうなんです、その人と結婚したいと願って居たそうなんですけど、その人は母より華やかな人生を求めて……」

 華やかな人生? それは違う……確かに一流企業の課長と言う肩書き、美しい妻を娶り、それなりに贅沢もしたし、都内に一軒家を持ち、娘を私立の一貫校に通わせもした……しかし、気付いてみればすべてを失ってしまって、残っているのは肩書きだけだ。

「この浴衣、母から譲り受けたものなんです、本当はこれと一緒に髪飾りも貰ったんですけど、それは火葬の際にお棺の中に……」

 この浴衣に合う髪飾り……俺が唯一幸江に贈ったものだ。
 この少女……幸江の娘に間違いはない、そして俺がその『想い人』だったと気付いている。

「亡くなる少し前に、母が私にこの浴衣を着て見せて欲しいと……そしてこの話を聞いたんです、それまで母にそんな恋があったなんて知りませんでした……髪飾りをお棺に入れた意味、わかりますでしょう?」
「……」
 俺には返す言葉はなかった。
 しばらくの沈黙の後、少女はふと笑みを浮かべて言った。
「今、お幸せですか?」
「あ、いや……それはどうかな」
「母は幸せでした、正しい選択をしたんです……若い頃の恋はずっと胸にしまっていました、その頃はきっと悲しかったんでしょうけど、それはいつしか母の中で美しい想い出に変わっていました……ですから……」
「え?」
「あなたもお幸せでいてください」
 それだけ言い残すと、少女は早足に去って行った。
 
(そうか、幸江は幸せだったんだ、そして、俺を恨んだりはしてなかったんだ……)