卒業
古い本の匂い。 紙の匂いと、 のりの匂いが混ざりあう図書室の空気の中。
ほのかに舞い散るほこりと、 木目調の本棚に反射する陽射しが、 彼のまわりを柔らかくする。
静かにページをめくっては、 眼鏡に添えられる彼の指。
ーーーー できるならば美しいこの瞬間を、誰にも触れられないように切り取ってしまいたい。
私だけのものに。
そう、 強く願った。
歪んだ欲望を遮るように鳴ったチャイムを合図に『 図書室 』 のタグのついた鍵を、 少し鳴らして立ち上がる。
チャリ、という音で はっと我に返った彼に、
「 そろそろ締めるよ 」
と声をかける。
目の端で動く影を確認し、 返却された本を持つと、 背表紙の分類番号を確かめながらゆっくり奥へ進んでゆく。
最後の一冊を少し背伸びして戻そうとしていると、 先ほどまで読んでいた本を戻しに近くに来ていた彼が、 後ろから、 そっと手首を掴んだ。
「 手伝うよ、 ここでいい? 」
「 うん、 ありがとう 」
彼が目の前にいる事を意識して、 掴まれた手首をみつめ、 なんとなくさわる。
こういうのも、もう最後なんだ。
視線を感じて見上げると、 ふたりの目線が重なる前に、 彼の手で目を塞がれた。
突然のイタズラに驚いて開けた私の口の中に、 目隠ししている手の親指が、 器用に入ってくる。 反射的に、指を軽く吸ってしまった。
彼は、 僅かにこわばったあと、 無言で少し乱暴に私の口の中をかき回した。
顔にかかった髪を、 手でそっとよけるようにしながら、 彼の指が頬から首筋、 耳へとすべってゆく。 その甘い感触に身じろぎする私の耳元に、 笑いを含んだ甘い声が吹き込まれた。
「舐めて」
視界を奪われた私を観察する彼の気配を感じ、 微かに緊張する。
彼の長い指は、 口の中でゆっくりと私の歯列をなぞり、 少し引いては唇の輪郭を触る。
その指を追いかけるようにして、 舌でなぞる。 口の中を泳ぎ、 なかなかつかまらない彼の指に翻弄されそうになる。
真っ暗な中、熱い口内から伝わる湿った音が頭の中に反響して、 何も考えられなくなる。
本能が、 私を支配していく。
奥に、 奥に、 拡がっていく。
やっと捉えた指を、 吸い付くようにくわえ直し、 口の中でうわごとのように彼の名前を呼ぶ。
「 …… 祐(ゆう)く…… 」
もっと。もっと。
もっと君をちょうだい。
君の全てが欲しい。
息を飲んだ気配がしたあと、熱をもった声で
「やばい、エロい」
と呟くのが聞こえた。
その声を聞いて、 視界奪っていた手をそっと両手で包みはがし、 眼鏡に縁取られた揺れる瞳を見つめた。
視線を絡めたまま、 何度か角度を変え挑発的に指を食み、 最後にチュッと音をさせてゆっくりと唇を離す。
「 友香(ともか)……」
期待に囚われたような彼の顔を見つめ、ポケットから出したハンカチを渡すと、 立ちすくむ彼に背中を向け、
「 もう締めるよ 」
そっけなく声をかけ、 鞄を持ってドアの外に出る。
微かに渦巻く熱を醒ましながら待っていると、 恨めしそうな顔をした彼が、 のろのろと出てきた。
鍵をかけた後、引き抜くのにコツがいる。
「 そんな顔で鍵を返しに行かないで、 ヤマセンに視姦される 」
不貞腐れたように言う彼に、
「 山崎先生? ふふ、 自分でイタズラしてきて何言ってんのよ 」
「 友香がエロいからだろ。 俺、狂いそう 」
苦しそうな声で後ろからゆるく腰を抱かれ、肩におでこが乗る。 微かに触れる眼鏡の形を感じ、切ない気持ちになる。 醒めたはずの熱が再び押し寄せてくる。
「 ねぇ、 友香。 なんであと1日遅く生まれて来てくれなかったんだよ 」
ーーーー そうだね、私もそう思う。
背中を丸めてくちびるを尖らせている彼が愛おしい。抱きしめて髪を撫でてあげたい。
「 私が遅く、 じゃなくて、 祐くんが1日早く生まれて来ればよかったじゃない 」
1日違いで学年の変わってしまう誕生日の2人。 彼と出会ったこの図書室で、この制服の2人の最後の日。
この大切な時間を切り取りたい。
いっそ彼を包む全てのものを切り取って、 誰にも、 彼を渡したくない。
この先誰にも、見られないように。
「 遅くなっちゃったね。 帰ろう 」
振り返って彼の眼鏡の奥にある光を覗き、 笑いかけて手を握った。
全く歩く気のない彼の手を引きながら、 職員室に向かう廊下を歩く。
ふと窓の外を見上げると、 空はほのかに紅く染まる雲を抱え、 幾重にも繊細な色を重ねていた。
もうすぐ暗くなる。 この瞬間は今だけのものであって、 先にも後にも存在しない。 この瞬間を、 愛しい彼ごと切り取れたらいいのに。
突然、 彼に鞄を押し付ける。 驚いた顔を笑いながら
「 玄関で待ってて! 」
と叫んで、 全速力で廊下を走り出す。
角を曲がって、 階段を駆け下りて、 立ち止まった。
下校時間が過ぎ、 誰もいないしんとした廊下に、 私の息だけが聞こえる。
ーーーー 先に泣かないでよ。
我慢していた涙が、廊下にポタッと落ちる音がして、心の中に静かに波紋を作っていった。