雨の匂い、夏の始まり
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こんなに早い時間に目が覚めたのは久しぶりだ。午前五時。瞼を閉じたままiPhoneのアラームを止める。顔がべたついている。昨日は風呂に入らず寝入ってしまった。約一時間のサービス残業を終えて帰宅したのはほぼ午前零時。帰宅してからシャンプーを切らしていたことに気づいた。おまけに、外では雨が降っていた。台風三号が九州から東北にかけて横断しようとしているようだった。シャンプーを買うためだけに、徒歩片道二十分のスーパーまで足を運ぶ気力は残っていなかった。
シャンプーを買いに行かなければならない。ついでに朝食も買おう。冷蔵庫の中はほぼ空だ。眠い目をこすりながらパーカーに着替える。フードで寝癖を隠せば完璧だ。傘を携え、アパートを出る。時刻は五時半を回っていた。
雨はしとしと降っていた。台風なんて本当に来るのだろうか。そんな風に思ってしまうほど穏やかな雨。傘を開いて、イヤフォンを耳に突っ込む。流す曲は星野源の「雨音」。ピアノのかわいらしい旋律と小気味いいビート感が、この天気にぴったりだと思った。大きく伸びをして歩き始める。
眠っている間にどのくらいの雨が降ったのだろうか。川の水の色が茶色く濁っている。川の両岸で綺麗に咲いた紫陽花を横目に見ながら橋を渡る。むっとした雨の匂いがする。夏の始まりの匂いだ。
スーパーでシャンプーを買い、ついでにバナナと食パン、ベーコン、牛乳を買った。帰り道はイヤフォンを外して歩いた。車が道路の水を弾く音。傘に落ちる雨粒のリズム。自分の足音。イヤフォンを外すと、いろんな音が聞こえる。いつもなら二十分の道のりを、たっぷり三十分かけて歩いた。
家に帰ると、高校時代の部活の先輩からLINEが来ていたことに気づく。
「お誕生日おめでとう」
あぁ、そうか。今日は誕生日だ。
誕生日を祝われるというのはとても嬉しいことだ。急いで返信する。
一年前の今日はどんな風に過ごしていただろうか。高校生の自分を思い出すのに苦労する。つい最近のことなのに、記憶は既に朧げだ。しかし、今のような余裕はあの頃にはなかった。そう言えると思う。高校生の頃の自分は、一日を生きるのが精いっぱいで、全力だった。
成長したのだろうか。今、全力で生きているか。あの頃の自分に負けないくらい、何かと戦っているか。分からない。しかし、周りがよく見えるようになった。小さな日々に目を向ける余裕のなかった一年前の自分にはできなかったことだ。
牛乳をマグに注ぎ、バナナを頬張る。フライパンにオリーブオイルを敷き、卵を軽く炒め、ベーコンを焼く。トーストにそれらを挟み込み、ケチャップを載せる。朝食の完成だ。
さあ食べよう。そう思ったところに、気味の悪い音が部屋に響く。iPhoneが市の緊急速報を受信していた。大学の付近で土砂災害に備えた高齢者の避難勧告がなされたようだ。
せっかくだし、今日の授業は休むことにしよう。有意義な誕生日だ。カレーライスでも作ろうか。
作品名:雨の匂い、夏の始まり 作家名:水野大河